ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 広河隆一著 「福島 原発と人々」 岩波新書

2011年09月12日 | 書評
福島第1原発事故はチェルノブイリ級、日本政府のいう事を信じてはいけない 第10回

2)事故の隠蔽と拡がる放射能被害 (3)

 東電と政府官僚の事故隠しにより放射性物質排出レベルについては官邸の意思があって公表を伸ばされたという。7月7日になって保安院が、ヨウ素換算で放出された放射性物質量を77万ベクレルと上方修正値を発表した。チェルノブイリ事故では520万ベクレルであったので福島では1/7の放出量であった。国債評価が下がるとでも思ったのだろうか。原発を規制する「原子力安全員会」は保安院に責任を押し付けて全く機能しなかった。眠れる獅子を演じたのである。このような政府の情報隠匿状況を見て、保安院や官邸の「直ちに安全に係るレベルではありません」という発表を、メディアはコメントなしに垂れ流しするだけでは共犯関係にあるといわれても反論できないであろう。「ただちに」という言葉は、放射線障害のリスク論からいうと「急性障害が起きないという意味で、原爆の直接影響で死亡、火傷、下痢、嘔吐の起きるレベルではない」であり、住民の避難のためには「晩発性障害という意味で、ガン発生という確率的発症の可能性」で行動しなければならない。「ただちに健康に影響は無い」という言葉で住民は安心できるのではなく、「数年後にはガンになるかもしれないから避難しましょう」と理解すべきなのである。だから保安院や官邸が「ただちに」という言葉には陰険な嘘が込められている。言外に安心しろといいながら、数年後の発症には言い訳の意図を込めている。「今は死なない、後は知りません」といっているのである。何と無責任な言葉であろうか。メデイアは自社の記者の安全を考えて、50km以内には近づかないようにという指示を出していた。政府と東電の資料だけに頼った取材である。むしろ20Km以内の住民避難指示は記者の立ち入り禁止と、取材拒否につながっている。これも情報遮断の一手法かもしれないので、ジャーナリスト有志は「福島第1原発敷地内と警戒区域内での定期的取材機会の要請」という共同アピールを出したという。原発作業員や東電社員も働いている区域内に記者が管理された被爆を承知で入ることは原理的に可能である。NHKは3月21日の内部基準で「取材は政府の指示に従うことが原則」とした。
(つづく)

環境書評 大島秀利著 「アスベストー広がる被害」 岩波新書

2011年09月12日 | 書評
中皮腫発症の40年のタイムラグが、アスベスト対策を甘く見た原因 第10回

4)生活の中のアスベスト被害  (1)

 アスベスト製品の製造過程での労働者の被害は、2004年のアスベスト輸入、製造、使用の禁止により、少なくとも2040年ごろには新たなアスベスト健康被害は出ないだろう。しかし日常生活に入り込んだアスベスト製品により知らないうちに被害にあう「第二波被害」が広がろうとしている。職場・学校・或いは近隣で使われているアスベストの危険性を認識しなければならない。テナント店舗の倉庫の壁の「吹き付けアスベスト」で中皮腫となった人が2004年に亡くなった。「吹き付けアスベスト」は主に耐火、吸音材としてアスベストとセメントを混合して使用されていた。1975年にアスベスト5%含有の吹きつけは禁止されたが、5%以下の「吹き付けロックウール」は1995年ごろまでは工事に使用されていた。2006年家族は大屋の近鉄を相手に訴訟を起こした。近鉄は2007年までにアスベスト除去の対策を終えたが、2009年8月に大阪地裁の判決が出て、近鉄に5000万円の賠償を命じた。規模の小さい建物におけるアスベスト使用の実態は現在もなお把握されていない。国土交通省は2005年以来床面積1000平方メートル以上の建築物のアスベスト使用の調査を依頼した。その結果2007年3月までに、にアスベストが露出している建物が1万6000棟あることが分った。職場では鉄筋構造の耐火用として吹き付けアスベストが使用されていた。機械室、空調室、ボイラー室、電気室、給湯室などのユーテリティー施設の空間である。一般の家庭では2004年までの製造分で石綿スレート材「コロニアル」などに使用されていた。外壁には「サイディング材」という建材が使われていた。一般消費者が使用するアスベスト製品は774製品もある事が経産省に届けられた。いずれも分断したり粉砕しなければ支障はない。
(つづく)

読書ノート 竹内 啓著 「偶然とは何かーその積極的意味」 岩波新書

2011年09月12日 | 書評
生物進化や人間の歴史のおける偶然の積極的意味とは 第1回

 本書を読んで、おやどこかでよく似た話は読んだことがあると感じた。自分の読書ノートを調べると、アーサー・ケスラー著「偶然の本質」(ちくま学芸文庫 2006年)がそれである。このアーサー・ケスラーの本は衒学的で超心理学というオカルトめいた落ちがあるが、本書竹内 啓著 「偶然とは何か」はさすが岩波新書であるだけに明るく前向きである。しかし扱っている手段は、数理統計学と量子物理学、進化学など両者の材料は似ている。同じような材料を扱ってどうしてこうも結論が違うのか、それは前者が心理学であり、後者は経済学であることだろう。竹内 啓(1933年10月生まれ)は、日本の数理統計学者、経済学者。東京大学名誉教授。基本的な専門分野は統計学だが、経済理論ではマルクス経済学に位置し、その広い関心から科学技術や環境保全などに関する著作も多い。1994年までは東京大学経済学部教授を務め、定年後は明治大学国際学部教授を12年間務めた。現在は高崎商科大学客員教授だそうだ。父も弟も東大教授だったという東大学者一家である。主な著書には「数理統計学」(東洋経済新報社 1963)、「近代合理主義の光と影」(新曜社 1979)、「情報革命時代の経済学」(岩波書店 1987)、「科学技術・地球システム・人間」(岩波書店 2001)、「現代史への視座」(東洋経済新報社 2007年)などがある。

 この本のテーマは「偶然」である。人生において予測できないこと、説明できないことは多い。その典型はガンになること、事故にあうことであろう。もっと理不尽なことは無差別な犯罪に巻き込まれて命を落とすことであろうか。そこでいつも出てくるセリフが「なぜ私(あの子)に限って」という無念である。言ってもしかないことながら、この理不尽、不合理は人間の宿命という運命論でかたがつくのだろうか。「神」が死んでから久しく、今では誰も神の意志など信じない時代である。まして「親の因果が子に祟り」など仏教的迷信は最悪である。でもどうなるかわからないという「不確実性」はやはり存在する。偶然を悪いイメージで捉えると「リスクマネージメント」となり、要因を排除し安全対策を万全にしたつもりでも、やはり事故は起きる。リスクは管理するものとしても、偶然を押し込めることは出来ない。ここでリスク「偶然」には2つの面がある事が分る。ひとつは客観的な「偶然」という問題と、それに対して個人または社会がどのように主体的に関るかという問題である。当然ながら、後者の問題が本書の目的である。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「江村夜市」

2011年09月12日 | 漢詩・自由詩
街頭喧噪買秋茶     街頭喧噪 秋茶を買い
 
陋屋城西寄水涯     陋屋城西 水涯に寄す

白糸急帰留夜雨     白糸帰を急がせ 夜雨を留め

紅灯売酒過隣家     紅灯酒を売る 隣家を過ぎる


○○○●●○◎
●●○○●●◎
●●●○○●●
○○●●●○◎
(韻:六麻 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)