フランス革命時の民主思想の憂鬱とは 第1回
トクヴィルという名前はどこかで聞いたことがあると思って調べてみると、この読書ノートにおいて佐々木毅著 「政治の精神」(岩波新書 2009年6月)がトクヴィルについて述べていた。その本の第3章 政治に関与する精神 において、丸山真男氏「政治的判断」(1958年)、ウオルター・リップマン「幻の公衆」(1923年)、シュンベータ-「古典的民主主義批判」、ハーシュマン「失望と参画の現象学」らと並んでトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」(1835年)が引用されていた。
その論点は「トルヴィルはアメリカのデモクラシーにおいて、境遇の平等化がもたらした弊害と大衆社会を指摘した。自由は特定の社会状態を定義できるものではないが、平等は間違いなく民主的な社会と不可分の関係にある。自由がもたらす社会的混乱は明確に意識されるが、平等がもたらす災いは意外と気がつかないものだ。平等化は自らの判断のみを唯一の基準と考えるが、自らの興味とは財産と富と安逸な生活に尽きる。そこで個人主義という利己主義に埋没する。民主化は人間関係を普遍化・抽象化すると同時に希薄化させる。そして人は民主と平等の行き着く先で孤独に苛まれるのである。平等が徹底されるにつれて一人の個人は小さくなり、社会は大きくみえる。政治的に言えば、個人は弱体化し中央権力が肥大化するということになる。中央権力も平等を望み奨励するが、それは平等が画一的な支配を容易にするからである。ここに新しい専制の可能性が生まれる。小さな個人にたいして巨大な後見人(政府)が聳え、個人の意識をより小さな空間に閉じ込め、しだいに個人の行動の意欲さえ奪い取ってしまう。アメリカの民主制は個人主義を克服する手立てとして、公共事業への参加によって個人の世界から出てくる機会を与えた」というものである。民主主義は平等を徹底させて、矮小化した民衆を画一的な個人主義に埋没させ、その管理しやすい民衆を支配する政府という中央集権制官僚主義の専制を招くというもので、実に憂鬱な厄介な見方を19世紀前半に予見した。
(つづく)
トクヴィルという名前はどこかで聞いたことがあると思って調べてみると、この読書ノートにおいて佐々木毅著 「政治の精神」(岩波新書 2009年6月)がトクヴィルについて述べていた。その本の第3章 政治に関与する精神 において、丸山真男氏「政治的判断」(1958年)、ウオルター・リップマン「幻の公衆」(1923年)、シュンベータ-「古典的民主主義批判」、ハーシュマン「失望と参画の現象学」らと並んでトクヴィルの「アメリカのデモクラシー」(1835年)が引用されていた。
その論点は「トルヴィルはアメリカのデモクラシーにおいて、境遇の平等化がもたらした弊害と大衆社会を指摘した。自由は特定の社会状態を定義できるものではないが、平等は間違いなく民主的な社会と不可分の関係にある。自由がもたらす社会的混乱は明確に意識されるが、平等がもたらす災いは意外と気がつかないものだ。平等化は自らの判断のみを唯一の基準と考えるが、自らの興味とは財産と富と安逸な生活に尽きる。そこで個人主義という利己主義に埋没する。民主化は人間関係を普遍化・抽象化すると同時に希薄化させる。そして人は民主と平等の行き着く先で孤独に苛まれるのである。平等が徹底されるにつれて一人の個人は小さくなり、社会は大きくみえる。政治的に言えば、個人は弱体化し中央権力が肥大化するということになる。中央権力も平等を望み奨励するが、それは平等が画一的な支配を容易にするからである。ここに新しい専制の可能性が生まれる。小さな個人にたいして巨大な後見人(政府)が聳え、個人の意識をより小さな空間に閉じ込め、しだいに個人の行動の意欲さえ奪い取ってしまう。アメリカの民主制は個人主義を克服する手立てとして、公共事業への参加によって個人の世界から出てくる機会を与えた」というものである。民主主義は平等を徹底させて、矮小化した民衆を画一的な個人主義に埋没させ、その管理しやすい民衆を支配する政府という中央集権制官僚主義の専制を招くというもので、実に憂鬱な厄介な見方を19世紀前半に予見した。
(つづく)