アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記130・出色の「紅白歌合戦」とジェンダー

2021年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 今回の「紅白」は、名前も知らない歌手が多く、聴きたい歌もないので、見まいと思っていた。ただ、「エール」(古関裕而)や「東京五輪」がどう扱われるか確認しようと思って、結局、後半を全部見ることになった。

 そうしたら、思わぬことになった。かつてなく感動したのだ。
 名も知らなかったYOASOBI、東京事変、あいみょんに感動した。ロスからのYOSHIKIと世界のアーティストの共演も良かった。そして、トリの福山雅治、MISIA…挙げればきりがない。

 感動したのは、これまで見たどの「紅白」よりも、歌い手、演奏者の魂がこもっていたように思えたからだ。それはもちろん、コロナ禍と無関係ではない。抑えつけられてきたアーティストのエネルギーと、同じ苦しみの中にいる人々への思いがあふれていた。音楽の力、歌の力は凄い、とあらためて思った。

 同時に、だからこそ「紅白」は大きな転換点を迎えている、いや、かなり前からそうだったのだが、転換は待ったなしだと痛感した。時代(の要請)から大きく遅れているのだ。

 過去50回出場し「紅白」の顔とみられていた北島三郎が最後にこう言った。「これまで私は日本のために歌ってきたが、きょう出場した若い人たちは世界を歌っているんだね」。そう語ることができる“演歌の大御所”北島三郎にも感心・感動した。

 心打たれた歌の多くは、女性のシンガーソングライター、あるいは女性ボーカルのバンドのものだった。これはけっして偏った見方ではないと思う。

 NHKが何よりも改めねばならないのは、女性は「紅」、男性は「白」とカテゴライズし、挙句に点数を付けて「勝敗」を決めていることだ。この時代錯誤の愚を直ちにやめねばならない。
 MISIAが「採点」の前にこう言った。「紅とか白とか関係なく、みんな精一杯歌った」。まったくその通りだ。
 司会の大泉洋も二階堂ふみも、男女関係なく感動し涙していた。当たり前の姿だ。氷川きよしの衣装・メイクが「中性」に見えたのは偶然だろうか。
 今回は「紅」「白」の区別・強調がいつもより少なかったように思う。それも例年以上に感動した要因の1つだ。

 次回(今年)からはきっぱり、「紅白」の勝敗判定はやめるべきだ。のみならず、女性歌手を「紅」、男性を「白」に分けることもやめるべきだ。したがって、「紅白歌合戦」というタイトル自体改めねばならない。そもそも、「合戦」という戦争用語も使うべきではない。 たとえば、「年末みんなのコンサート」という名前はどうだろう。

 「紅白」について語ってきたが、実はこれは今年の自分自身の課題と関係する。

 今年の大きな課題は、「ジェンダー」だ。「ジェンダー」の定義も難しいと思うが、歴史的・政治的・社会的に規定・固定化された男女の性差・役割、女性差別、という意味で使う。
 ジェンダーは、天皇制や在日差別など日本のあらゆる差別と深く絡みついている。

 そして、私自身が、生まれた時から今日に至るまで、無意識のうちにジェンダーをたたきこまれてきた。母から「男の子は台所に入るもんじゃない」と言われて育ち、小学校から男女別、そして男が上の出席簿になんの不思議も感じなかった。

 日本の文化の中でジェンダーに自覚的になるのは容易ではない。たとえば、感動的だった福山雅治の「家族になろうよ」も、父は強く、母はやさしい、というジェンダーと無縁ではなかった。

 ジェンダーの視点から、日本を、そして自己を検証し、変革を目指す。それが今年の大きなテーマだ。

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