まずは、2日間の京街道歩きからスタート。56kmあるので、およそ半分の樟葉駅までが、今日の歩きである。
6:30、今夜も電車で戻って連泊するので、余計な荷物を預けてホテルを出る。無料の朝食は遅いので食べないで出た。
京都駅からJR東海道線に乗り山科で京阪京津線に乗り換えて、追分駅まで移動した。さらに、東海道との追分がある、髭茶屋までやって来た。
山科追分~伏見宿
髭茶屋の由来はわからないが、ここは大津市と京都市との境でもある。右へ行くと「東海道 三条大橋へ」。左へ行くと「京街道 大阪」まで。
追分には道標があり、「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られている。横に「蓮如上人」と彫られた碑もある。
ここは、4年前の中山道(東海道との重複部分)の最終日に通っているはずだが、当時の記録を見たら、触れていないので、見落としているようだ。
このあと、ポカをして、往復2kmも無駄に歩いてしまった。朝食を買いにコンビニに寄ったが、店から出たときに、90度違う道を進んでしまった。
山科大塚の交差点を過ぎると、民家の前に「ひだりおヽつみち みぎうじみち」と書かれた道標がある。この道は「奈良街道」とも呼ばれているが、狭い道で車が多く渋滞気味。
右手に、「皇塚」と彫られた石碑がある。この地には,直径20mほどの円墳があり、桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったといわれるそうだ。
しばらく府道歩きが続くが、右手に京街道の旧道分岐があり、右へ進む。
旧街道らしい雰囲気を残した家並みが続く。
再び府道へ出るが、その手前の左手に「桓武大王陵」、右手に「仁明天皇御陵」、などと彫られた石標があった。
やがて、由緒ありげな藤森神社に寄ってみた。1800年前に、神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社である。
鳥居には後水尾天皇の宸筆による扁額があり、参勤交代のとき大名も駕籠から降りて拝礼しなければならなかったという格式があったが、幕末の動乱の時代となり、時代にそぐわないと近藤勇がはずしたという逸話で有名で、現在は架かっていない。
伏見宿~淀宿
54 伏見宿(東海道57次)
・山科追分から分れて、大坂へ向う東海道としての54番目の宿場町であると同時に伏見城の城下町でもあり、さらに淀川の水運の中継地(伏見港)でもあった。
・江戸時代は幕府の直轄地で伏見奉行が支配する大きな町であり、他の宿場町に比して大変大きく、宿場は東は京町通りから、西は高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接し、東西1km、南北4.6kmという大きな広さで、人口2万4千人程の大都市であったという。本陣4、脇本陣2軒、旅籠39
伏見宿は墨染駅の辺りから始まるらしいが、城下町だったこともあり、右折・左折が多い。ダウンロードして印刷した地図だけではとても歩けたものではない。現在地が分かるスマホのGoogleマップのルート地図を見ながら歩いた。
伏見区役所を左に見ながら直進すると、前方にアーケード付商店街である。「大手筋商店街」である。今日の歩きの中で、最も人通りが多かった。
さらに進み、先の交差点で右折して「油掛通」という通を進む
伏見宿の中心部だった辺りに、黄桜酒造があり、カッパテーマ館もある。
油掛通を左折すると京橋へ行くが、その手前を左に入った所に寺田屋事件で有名な「寺田屋」がある。再建されているが、現在も営業をしている宿屋である。坂本龍馬の定宿で、おりょうさんとの恋の宿としても知られている。
宿の右側が公園になっていて、寺田屋事件のことや坂本竜馬とおりょうさんに関わる史跡がある。
街道に戻ると、京橋に出る。そのたもとに「伏見口の戦い激戦地跡」の碑が立っている。
伏見宿の中心は、現在の京橋付近だったようで、本陣があったという。橋の下の川は「豪川」というが、宇治川に注ぎ淀川に通じている。淀川の水運は、ら京都、大阪を結び、琵琶湖経由で遠く東海道・北陸ともつながる交通の大動脈であった。
京橋の上から「伏見みなと公園」を見下ろす。
伏見みなと公園の「伏見みなと橋」~ここは江戸時代の港ではなく、戦時中の河川輸送の為に造られたものだそうだ。「三十石船」をイメージしたベンチがあり、常夜燈も立ち、橋も架かっている。
やがて、3kmほどの宇治川堤防の歩きとなる。狭い街道ばかりを歩いてきたので、非常に開放的な歩きを楽しめた。
やがて土手を下り、京阪本線の踏切を横断して、線路沿いに進む。「京都競馬場」が見えてくる。右手に「史跡 戊辰役東軍西軍激戦之址」と書かれた木標と「戊辰役東軍戦死者慰霊」の石碑があった。
淀宿~樟葉駅
55 淀宿(東海道57次)
・淀宿は、淀城の城下町であり、伏見宿からわずか1里14町の近い所にあった。
・江戸時代の淀城は、豊臣秀吉が築城して淀君を住まわせた淀城ではなく、伏見城を廃城にして、桂川、宇治川、木津川が合流する三角州に新しく築かれた淀城を指す。
・淀宿はこの新しい淀城の領域にある三つの町と淀小橋でつながった城外の三町で形成されて、水陸交通の要衝として繁栄した。本陣0、脇本陣0 旅籠16
12:30、京阪淀駅前に出る。この辺りが淀宿の中心地だったようだ。
この駅の左方向に淀城公園があるが、余裕がなく、寄らなかった。
その手前の呑龍という中華料理店で昼食にした。
淀駅前を通り、再び旧街道然とした古民家が並ぶ道を進む。
やがて、淀川に架かる昭和2年竣工の御幸橋を渡る。
御幸橋は淀川と木津川の2本に架かっているが、その間の「背割堤」は桜の名所らしい。桜がきれいに紅葉していた。
木津川に架かる御幸橋を渡り、このあとしばらくは府道が上を走る堤防の根元の歩きが続く。しかし、この道は、旧街道ではなく、河川や堤防の工事なとで分からなくなっているそうだ。
やがて、再び旧街道の町並みとなる。この辺りは遊郭があった所らしく、古い宿屋とおぼしき建物が並んでいた。
堤防を越えて河川敷の道を歩くところもあった。
今日のゴールの樟葉駅近くになったら、突然、これまでになかった「旧京街道」の標石が現れてびっくりする。
覚悟はしていたが、五街道と違って、全く街道の標識はない。曲がり角が分からないので、現在地の表示されるGoogleマップのルート図が頼りだった。
15:00、今日のゴールの樟葉(くずは)駅に到着。
ここから一回乗り換えて、京都駅まで戻り、16:00、昨夜と同じホテルに到着。今日1にちのホテルからホテルまでの歩数は、49,000歩。
まずは、大きめのバスタブにお湯を入れ、疲れを抜いて、ブログアップ作業に取り組んだ。
しばらくぶりなので、相変わらず、時間が掛かる。書き終わったら、20:00近くになった。明日からはもっと省エネアップを工夫しなくては・・・。