あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

反駁 ・ 福本理本伍長 「 相澤中佐はさすがだと思いました 」

2020年07月04日 11時12分06秒 | 反駁 1 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況)


歩兵第三聯隊 第十中隊
福島理本伍長の豫審陳述

< 三月十日 >
今回の行動の基因は

「 國政改革です 」
このような不法行動が國政改革になるのか
合法的には改革などできないと思う。
何故に國政改革の必要があるか
蹶起趣意書によって判然としました。
被告は蹶起趣意書に對してどう思うか
自分の行動は趣意書に基き決意の上のものです。
然らば討奸という奸賊と お前が称する重臣は具體的にどのようなことを為したか
私には具體的には分りませんが、
相澤中佐の公判に見られるように、亦 満井中佐の弁論等に依っても充分に推察できることです。
そのような程度の考えで重臣を殺傷するという事は、お前たち自身がこの國の敵に成るのではないか
「 ・・・・」
どうだ その様にも考えられないか
それは裁く側から見れば そうかも知れない。
自分は農村出身であり 農民の苦しみと高位高官の生活の距り等 考えると、
どうしても不正を行っているように思う。
上御一人はこの様な庶民の苦しい生活を知らされてない。
即ち 重臣達が陛下の側近に垣を成して神意を妨げ、私慾を恣ほしいままにしているのではないか。
それが大内山の暗雲なのです。
そのような言葉は一方的なものだ。我々は公平無私の立場で調書を執っているのだから、
あまり頑なにならず本當の心情を申し述べよ
ハイ、解りました。
豫審官は既に自分の携行私物品から
自分の今回の行動 及び 考え方はみな お解りの筈ではないですか。
本日のお前は冷静ではない。
今日小官の云った言葉をよく吟味して 次回聴問の時には冷静に応えよ
今日はこれで帰房
「・・・・」

< 三月十三日 >
お前は自分の意思で決起趣意書に共鳴して参加したように前回申立ているが、
こと高官を殺傷するが如きは尋常の思考では出来るものではないと思う。
一下士官として中隊長の指揮を受くべき筈なのに如何して今回の様な行動をとったのか
自分はもちろん中隊長の指揮により行動すべきであることは承知です。
が 今回、野中大尉の部屋から戻って鈴木教官に尋ねた折り、
中隊長 ( 新井勲 ) は趣旨には共感だが 不參加だとのことであるので考えが同じならばと、
意に介しませんでした。
お前は軍人であろう。
それがこの様なことに 命令でなく參加することは出來る筈がないではないか
調査官殿は今回の事件の表面だけを見て問い詰めても、それは事件の本質に触れられないでしょう。
自分は無学の農民ですが、爲るが故に今回參加の決心が出來たのです。
それはどういうことか
聞いて頂けますか。自分は覺悟が出來て居りますから 自分の事だけとして申上げます。
自分は農民です。自分の生家は中農です。
養蚕については児玉郡でも一、二を爭う収穫量を誇ったものです。
インド人も參観に來たことがあり、九州方面からは青年が實習に來て、一年間も起居を共にしたこともあります。
そのくらいの農家でありながら生活の實態は自家産の米は老人向け、
残りを賣り、代りに南京米を購入して麦との混食をする有様でした。
自分は農學校卒業と同時にブラジル移民を考えていましたが、
兄が海軍に召集されておりましたので父が許しませんでした。
それで兄の除隊を待って軍隊志願をしました。
目的は農村出の下士官群を編成して満洲に於て一大農場を建設しようと考えていたのです。
だから幹候も志願せず軍隊の中で最も強靭な心身を堅持する下士官、
それも農村出身の我慢強い人達を糾合した下士團を編成して實行したい。
そのためあえて下士官となったものです。
第一師團の満洲行をねらっていました。
財閥、閨閥、學閥、軍閥 これらを考える時 農村の若者は窒息してしまいます。
これまで申上げれば、永田事件の公判記録などにより触發された自分の氣持も理解して貰えると思います。
生意氣なことを申上げました。愚か者です。それも充分自覺しております。異端児は承知の上です。
農民の心を知らぬでもない。
それほどに考えていたか。 なにかついでに云いたいことは
はい、はっきり決意したのは 野中大尉殿の、
『 内敵を斃してから外敵に當る 』 という言葉でした。これで賛成してしまったのです。
自分は中隊長を忘れたのは軍人として大いに恥じています。申し譯ありません。
お前の考えはよく考えてみたい。次回に種々訊ねることにするから本日は帰れ

< 三月二十日 >
本日は此方の問いにだけ答よ。今回の事件につき出動以前に接触した将校は
特別に今回の行動で接触したということはありませんが 野中大尉、鈴木少尉です。
いつか。野中大尉とは
二十五日午後十時、鈴木少尉と共に中隊下士官一同と共に。
それは依然に いつ会ったか
以前には有りません。
安藤大尉、坂井中尉等とはいつ 会ったか
直接會ったことは有りません。
この事件のことで協議、相談したことがあるだろう
二十五日夜野中大尉の指示を受けただけです。
鈴木少尉からはどうか
出動直前の指令だけで格別相談は致したことはありません。
中隊長や鈴木少尉等から今回の行動につき特に指導を受けたことはないか
ありません。
それにしては被告の行動はあまりにも決意と確信に満ち過ぎている。何時頃から今回の行動を知ったか
二十五日午後十時頃です。
大眼目を入手したのはいつか
二十二、三日頃だと思います。
誰から 何処で手に入れたか
下士官食堂で読んで下士官室の机上にも一部が置いてありました。
読んでどのように感じたか
「 ・・・・」
どのように感じたか素直に云え
相澤中佐はさすがだと思いました。
何がさすがなのか
武士らしいと思いました。
ただそれだけか
詳しくは讀み終えておりませんから。
他に何か読んでないか
『 永田事件公判記録 』 を少し讀みました。
それは何処から入手したか
六本木の書店で買いました。
いつ、何のために
二十三、四日頃 臨時外出して求めました。
相澤事件が語られるのに詳細を知らないのは一下士官として恥じたからです。
その本を読んでどう感じたか
これは大變な事なんだと 火をつけられた様に思いました。
火をつけられたとは
満井中佐、鵜沢弁護人らの言葉を知って
相澤中佐は全く己れを脱却し切った一身命を國に捧げた至誠の権化であると思いました。
血盟団、五 ・一五等々、昭和に入ってから様々な事件がありましたが、
何れも私情を捨てゝいることに感銘しています。
永田事件もその通りです。 
それでお前は今回の蹶起に際しては心から賛成して出動したのか
心から賛成したと云うわけではありません。
野中大尉殿の言によれば この蹶起は全國の陸軍に波及して眞の昭和維新、
即ち國政の清淨化が出來るとのことでありましたので、
よしんば その言葉どおりにならなくとも國政の清淨化には大いに貢献すると思い、
この際 やるべきであると思ったのであります。
さきほど 野中大尉とは以前に接触はないと云っているが、
直属上官でもない他中隊長の言に心服して自分の立場を忘れるようなお前でもあるまい。
もっと他に扇動亦は啓蒙を受けているのではないか
その様なことは有りません。
前の訊問の折、申上げました様に、自分の今回の行動は極めて単純な自分自身の考えからのもので、
誰からも事前に指導を受けたことは有りません。
自分自身の考えの中に大眼目や、重臣ブロックの正躰、又は相沢中佐公判記録等を読解したことによって、
以前に誰からも指導を受けたことは有りません。
そうか 全くないか。何れ判ることだぞ
はい、ありません。
では兵を参加させることに班長としてどの様に思ったか
野中大尉は兵に対しても命令ではなく参加させたい。
そのように指導出動されたいと言いました。この考えはまったく自分としても同感と考えられました。
ですから蹶起趣旨を充分諒解させられば、自ずから国の為という信念に固まり同調するであろうし、
又その団結はもっとも強固なものとなると思いました。そしてそのようになったと思っています。
それでは兵も自己の意思で参加したというのか
いや、違います。命令です。
嫌なものを連れ出す事は蹶起になりませんから 徹底させました。
然し、軍隊では直属上官のいう事は公務に関しては命令と感ずる筈です。
その上官がこと細かく説明し、だから蹶起するんだ、と云えば当然欣然参加することになりましょう。
ですから、兵の立場からすれば自分の指令指示はまさに命令になります。
嫌々の気持で行動するのではなく、率先して事に当ることが出来る、そのための指示をした訳です。
目的も知らせず兵に行動を強いることは自分にはできませんから・・・・
訊ねたことだけに答えればよい
ハイ。兵は命令です。これを言いたかったのです。
あまり興奮するな。お前の中隊の下士官は命令だと陳述しているが、どう考えるか。
被告のいう論理は片寄りすぎている。
趣旨が正しければどのようなことをしてもよいのか。
趣旨そのものを正しいかどうかは、また行動そのものも正しいことでなければならないのではないか。
貧者を救うために強盗をしてもいいか。これを正当化することはできないぞ
今回の決行行動は強盗如きものとは違います。が 予審官殿のおっしゃることも解ります。
現在の自分の心境は我々の行動の非を充分に認めます。
まことに申し訳ないことをしたものと存じます。
但し、このような結果となったからには益々蹶起の趣旨を強調しておくたいのです。
被告のいわんとすることはよく解るが それ以上聴く必要もないように思われる。
十中隊の下士官は広義の命令と解しての行動の様であるな
ハイ、そのようにとれると思います。
始めから命令と言えなかったのか
ハイ、言えません。自分の場合は命令ではないから。
ヨシ、今日はこのくらいにしておく。ゆっくり寝みなさい
「 ハイ 」

福島理本 著
ある下士官の二・二六事件
罰は刑にあらず
から


「 豫審では そう言ったではないか 」

2020年07月02日 10時54分05秒 | 反駁 1 西田税と北一輝、蹶起した人達 (公判狀況)


・ 香田淸貞大尉 「 國家の一大事でありますゾ ! 」 
「ブッタ斬るゾ !!」
・ 丹生部隊の最期

・・・の続き

営門を通過し営庭に入り、中隊宿舎に停止するや、
大隊長が馬を駈って走り寄り、馬上から我々を大声で叱った。
下士官兵は誰しも命令で行動したのであって、結果が悪かったからと叱責される覚はないと ややムッとした。
日夜命令服従の精神を徹底的に教育している直属上官の心境が意外でならなかった。

中隊に入って一晩すごし
翌三月一日、十一中隊の下士官全員は騎一の営倉に入れられた。
そして翌日には代々木の衛戍刑務所にブチ込まれてしまった。
入獄の翌日 私は陸軍懲罰令よって免官を申渡され一等兵に降等された。
日付は二月二十六日で、いわゆる営門を出た時点で反乱軍と看なされたのだ。
命令にしたがって行動した我々が何故軍法会議にかけられるのか、どうしても納得できず、
降等処分と共にやり場のない憤懣が胸中をかけめぐった。
私の入った獄舎は雑居房で 参加した下士官ばかりが八名ぐらいが収容された。
人権は剥奪、自由を失った起居が強要され、精神的苦痛は論外の沙汰であった。
看守というものが これまた冷酷無比な者が多く人間味など枯渇した連中ばかりである。
それでも兵隊あがりの者は我々の境遇に同情的で激励してくれたことは せめてもの救いであった。

私を取調べた予審官は岡田痴一という法務官で ( 中佐相当官 )
万事罪人に仕立てるべく段取りした上で、きびしく私にあたった。
調査室は小部屋で 彼は一段高い所にいて高圧的に尋問した。
「 お前は出動中、今読みあげたように行動したのだな 」
「 その時 お前は進んで同意したそうだな 」
「 それをよいと判断したのだな 」
彼はこのように自ら筋書を作っておいて私にハイといわせた。
つまりパズルと同じで空欄の中にイエスという言葉をはめ込んで行くのである。
反論すると大声で威圧し、自論に従わせた。
「 お前は今までの取調の中で、何事も命令、命令といっているが、そんな無謀な命令は命令ではないのだ 」
「 自分は命令として信じてうたがいません 」
「 中隊長は、お前は快諾して出動したといったゾ、また 他の下士官も同様のことをいっている。どうなんだ 」
「 中隊長が若しそういったというなら 今ここで対決させて下さい 」
私がそういうと 予審官は二の句が出ず、ウ・・・・と うなったまま絶句した。
取調べの様子から推定するに、
命令ではなく中隊長の思想に共鳴し自発的に出動したといわせようとしているのがはっきり汲み取れた。
「 命令、命令といつまでいっておれば、何時になろうとこの部屋から出さんゾ !  」
と 高圧的な言動を浴びせ、已む無く予審官のいう通りに答え調書を読聞かせられ 拇印を押させられた。
この場では致し方ないので裁判時に事実を申述べようと心に誓った。

公判は五月五日に開廷された。
裁判長山崎三子次郎中佐 ( 広島歩十一 ) 以下 岡田痴一法務官 判士三名、西春英夫検察官 計六名という顔ぶれで、
合同裁判の形式で行われた。
先ず、法務官が被告一人一人の調書を読上げる。
被告の人数が多いのでかなりの時間がかかった。
ようやく終了すると裁判長が、
「 今読上げた内容に間違いはないか、異議のある者は一人ずつ申してみよ 」
と ただした。
すると順番に一人ずつ起立して真実を述べ調書の誤りを訴えた。
すると西春検察官が険しい顔をして、
「 被告たちは何をいうか、予審でそういったではないか 」
と 何回か大声で怒鳴った。
予審の調べ方が悪いくせに 怒鳴り散らす法はあるまい。
法廷でなければ袋叩きにしてやりたいところだ。
こうして我々はあくまで真実を述べ、行動は終始命令によったものであるといいとおした。
裁判は続き 五月二十八日に西春検察官から求刑があり、七月五日に判決がおりた。
私は真実性が認められ無罪となった。
終了後裁判長は一言 皆に注意しておくといって次のようなことを述べた。
「 命令は絶対に服従しなければならない。
但し 上御一人の御宸襟を悩まし奉ったことは事実であるから 皆は謹慎しなくてはいけない 」
そこで私は許されるなら反論したかった。
( ではどうすればよいのか、命令には二通りある筈がない。あなたはすべて結果論からいっているではないか。
出動命令が出た時、その目的の善悪を判断していたら戦争はできるものではないことをあなたは承知している筈だ。
下達された命令が御宸襟を悩ますものであるかないか、我々下士官には判断できない。
もし今回の出動における命令服従が不可なにば下士官兵の立つべき道を御教示願いたい ) と。

以後私は 未だに裁判長の注意の意味が解釈できずに今日に至っている。
閉廷になってすぐ出所になった。
刑務所の正門前に歩一留守隊から加納大佐が迎えにきていて私達を見るなり、
「 皆が今日あるのを待っていたゾ 」
といって聯隊の計らいで揃えたユカタ、オビ、下駄が支給された。
私達はその場で着替え、ひとまとめにした私物を受け取ると、その夜は指定された渋谷の旅館に一泊した。
夕食後私服憲兵がきて、
「 外にでても事件の内容は絶対口外してはならぬ、喋れば叉連戻すゾ 」
と威嚇的な言葉で念を押していった。
一切が済んだというのになお緘口令が布かれているとは事件の裏に複雑な事情が秘められているからなのであろう。
私は家に帰ってからブラブラしていたが、村の駐在が時々やってきて私の様子を監視した。
大方私の思想を観察しているらしいが御苦労なことだ。
その後 陸軍省の職業補導部から連絡があって十二月下旬から陸軍兵器本廠に事務員として勤務し
以降終戦までつとめた。

私はいまでも当時を回顧すると命令と服従の関係、裁判長の注意、岡田法務官への憤怒の三点が
いつも浮かんでくる。
あの法務官が、たとえ職務上とはいいながら軍人精神並びに命令の尊厳性を会得していたなら、
あのような法律一点張りの裁判はやらなかった筈で、憎まれずに済んだのだと思う。
今健在なら高齢であろうが、裁かれた者が今日なお憎しみ続けていることを御存知だろうか。
次は命令と服従の関係だが、すでに述べたので省略し、第三の処罰の不公平を指摘する。
事件後北支事変が勃発し やがて太平洋戦争となり、日本は大敗を喫した。
そして国土は半減して瓦礫の巷と化し国民の多数が失われた。
一体当時、世界各国が日本の大陸進攻をすべからく侵略なりときめつけていたさ中、
聰明に徹する天皇が無謀な宣戦を布告する筈がない。
これを煎じつめれば戦争反対を肝銘しながらも軍部の威圧に屈した側近の責任が問われることになる。
二 ・二六事件で側近が討奸の対象にされたが、戦争宣言に至ってはより重大な責任といわねばならない。
思うに、世界を相手にして勝てる道理はなく、それをあえて踏切らせた原因は何であったか。
即ち権力を握った軍閥に屈服したからであろう。
この様な流れを見るにつけ 裁きを受けた私たちにとってみれば、
敗戦によって国を亡ぼしたこれら一連の指導者は勿論、手足となって国民を踊らせ、
かつ抑えつけた者までも私達同様きびしく処分されるべきであろう。

二・二六事件と郷土兵
蹶起将校の身辺護衛
歩兵第一聯隊十一中隊 軍曹 横川元二郎 著から