二十九日正午、敗惨の将、安藤大尉以下十九名の将校は、陸相官邸に集結した。
川島陸相以下、軍首脳部は、反乱将校の処置について、額を集めて協議していた。
山下奉文少将は自決を強調した。
「 彼等の憂国至情の精神は親心で見てやる必要がある。
現役の将校には自決の機会を与えて、軍人として最後の花を飾らせてやりたい 」
この意見が大勢を決した。
官邸の大広間に待機していた反乱将校は、日頃から尊敬、崇拝している山下将軍の声涙ともに下る、
死の説得に直立不動の姿勢で、じっと聞き入っていた。
「 今いった通り、お前たちの精神は、この山下が必ず実現して見せる。
決して犬死ではないぞ。 生きて反徒の汚名をきるなよ。 軍人として最後の花を飾って散って行け!」
列中に嗚咽が起きた。
山下将軍の要望で、その最後は古武士の作法に則って、「 切腹 」 と 決まった。
官邸の西村属官と憲兵の手で、真新しい畳が二枚、内庭のベランダに裏返しにならべられ白い布が敷かれた。
これが 「 切腹の座 」 である。
銀座の菊秀本店に九寸五分の短刀が注文され、靖国神社から白木の三方が届けられた。
介錯人は戸山学校の剣道有段者の将校が選ばれた。
このとき席をはずした野中大尉は、秘書官室で自らの拳銃で自決した。
野中大尉の死は、異様な衝撃を与えた。
「 山下将軍のいうことは一理あるが、蹶起の精神をこの眼で確かめたい。
死は易く、生は難い。 公判を通じて広く国民に訴えてから死んでも遅くない 」
村中孝次 の一言で、「 切腹 」 の線が崩れ去った。
結局、憲兵の手で武装が解除され、手錠姿で代々木の陸軍刑務所に収容された。
目撃者が語る昭和史
二・二六事件
人物往来社 昭和四十年2月
当時憲兵曹長・特務班長
小坂慶助乱れ飛んだ前夜の怪情報 から