退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「判断力」について

2012-10-18 02:43:26 | Weblog
雨。仕事帰りには止む。

吉岡友治「だまされない<議論力>」を読む。

読むということを手抜きなくすると「当然」な内容。
もっとも現実にその「当然」はあまりないのだけれど。

「論理的なことは冗長なこと」という大森荘蔵の言葉が引用されているのに納得。
要は「同じこと」をいかに人は「遠回し」にかつ「繰り返し」語ることか。

そのことの「正しさ」を認識するものは
果たして「簡潔」に語って終わるかどうかというとそれも難しい。

たとえば小説家としての大江健三郎は優れているものの
何事かに意見を述べる彼はむしろ「ダメの人」。

だからと言って小説家としての評価が下がるわけでもない。
両者を無理やりに「一致」させる必要がないだけの話。

敢えて海外の小説家の例を持ち出すなら
サルトルに「聖ジュネ」と言わしめたジャン・ジュネは「泥棒」だったり。

「同じ人」であってもいろんな面があるのはむしろ「常識」として受け止めたいところ。
それぞれに自分を振り返ってもわかるはずで。

「論語」のせいで孔子がまるで「聖人」のように扱われたりするのも実はおかしく
あくまで彼が「述べたとされること」に価値を見出せるだけ。

そのことを描いて見せた呉智英はさすが。
ただしだからと言って彼のあらゆる言説が「正しい」わけでもない。

いたずらに「正しさ」を求める人々によって「聖人」が生まれるだけのこと。
われわれもそろそろ「自前の判断力」を持つ時期に来ているのだろう。
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「歴史」について

2012-10-17 03:00:48 | Weblog
晴れ。今日もやや暑い。

「プルードン・セレクション」を読む。

「財産は盗みだ」という台詞が有名なアナーキストの文章。
なるほどここから「アソシエーション=生産消費組合」は始まったのか。

「信用」を貨幣にも国家にも置かない姿勢はむしろ清々しく
その実現可能性を試してみたくなる気持ちもうなずける。

何よりも重んじるのは「自由」で
あらゆる「支配」を拒絶するのがポイント。

ただし場所を問わず発生するのが「政治」だとするなら
「ユートピア=どこにもない場所」と評価されても仕方がないか。

ルイ・ナポレオンをまるで「救世主」のようにみなした当時のフランス国民は
まさかそれが21世紀の日本で「小泉」という首相によって繰り返されるとは思ってもみなかったろう。

「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として二度目は喜劇として」と言ったのはマルクス。
時空を超えて当てはまるその「事実」を思い起こせば「歴史」の重要性がわかるかも。

「古典」を読むと「現代の空虚」が浮かび上がる。
というより「人は学ばない」と言ったほうがシンプルでわかりやすいけれど。

さて。

パキスタンでは思いがけず「ジャンヌ・ダルク」が登場し
銃撃されたことで彼女の「地位」はますます確固たるものになる展開。

「女性に教育を受けさせない」という意味不明な信条を持つタリバンは
彼女を撃つことがむしろ自らの立場をあやういものにすることに気付かなかった模様。

それが「伝統」のためならそんな伝統はなくなってもいいだろうと思うものの
わが国の「伝統」を思うと他人事とも思えないのが残念。

「めんどくさいこと」は抜きにして
それぞれがいいと思う「実験」をすればいいのではないか。

そのためにも「集団」は規模の小さい方が無難。
いたずらに大きくなると「制御」できなくなるはずだから。

いずれ「制御」できないものは
原子力同様使わないことが望ましい。
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「ままならぬこと」について

2012-10-16 03:05:27 | Weblog
晴れ。やや暑さが戻る。

市バスが遅れたせいで地下鉄に乗り遅れ
ドトールで読書せずにボーッと過ごす。

適当にタバコを吹かしてうつむきかげんでいる姿は
おそらく何か悩み事でもあるかのように見えるだろうがさにあらず。

ひたすらよしなし事を思い浮かべるのみで
その中身たるや公表を憚るべきものもあり。

仕事帰り久方ぶりに地下鉄で寝過す。
とはいっても一駅なので特に害もなく。

深夜「one tree hill」を流し観る。

狭い範囲での人間関係を敢えてゴチャゴチャにする趣向が基本のドラマ。
ファースト・シーズンの最終回は次につながるネタを残しつついかにもな終わり方。

次回からは「lie to me 嘘の瞬間」のシーズン2が始まる模様。

曲者ティム・ロス主演で主人公は相手の表情から「真実」を暴く。
確か実際の政治家や有名人等の表情が映し出されたりしたはず。

頭の中をchar「気絶するほど悩ましい」が駆け巡る。

作詞は阿久悠で作曲が梅垣達志。
メジャーとマイナーの混ざり具合が面白いメロディーは今聴いても新鮮。

一曲目が売れずこれでダメならアメリカへ行こうと思っていたところでの思わぬヒットは
ギタリストならぬアイドルへの道を開いてしまう皮肉。

アメリカン・ポップスを歌いたかった大橋純子が世界歌謡祭の「シンプル・ラブ」で注目されたものの
「たそがれマイ・ラブ」「シルエット・ロマンス」で売れてしまったのも同様。

ままならないのは「世の常」だとして
その後をどう生きるのかが重要なのかもしれない。
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「意志のある世界」について

2012-10-15 02:46:49 | Weblog
くもり。昼間から暗い空。

午前中に野暮用をこなして昼寝。
午後からは妹の子どもにあれこれ教えることに。

案外真面目に取り組むのにいささか驚く。
同じ年頃の子どもたち同様日本語の理解に問題があるのが気になるところ。

その後妹たちの買い物に付き合いスーパーを散策。
カートを押して歩くのは嫌いではない。

深夜NHKでノルウェー統治下の北極圏に暮らす
さまざまな事情を抱えた国籍の異なる人々が暮らす町に関する番組を観る。

なるほどそうした環境にいれば
自動的に人生を「切り開く」よりない道が生まれるのだと納得。

少なくともわれわれの多くは
戦争その他の理由で「土地を追われる」ことはない。

だからこそと言ってはナンだけれど
去年の大震災で否応なくそうした境遇を受け入れざるをえなかった人々を思うべきか。

たとえば「憲法」は
絶対的な権力を思いのままに振るう王様の「気分次第」に対する「抵抗」によって生まれた。

「歴史」を「遠い昔」だと片付けることは簡単だが
実は「現代」にもそれとあまり変わらないことが起きていたりもする。

誰もが安穏に暮らしたいのはいつの世も変わらぬ「事実」。

もちろんその「切実さ」の度合はそれぞれ違うのかもしれないとして
「同じ希望」を持っていることだけは間違いなく。

「現実」がわれわれの頼りない「アンテナ」によって切り取るしかないものならば
目もくらむような「多様さ」については常に「敏感」であることを「基本」としたいものではある。
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「侮蔑」について

2012-10-14 03:32:42 | Weblog
晴れかくもりか。雲が広がる空。

ペーター・スローターダイク「大衆の侮蔑」を読むものの
解説の仲正昌樹に頼らないと何がなにやらという始末。

頭に内容が入ってこないところからすると
どうやら疲れているのだと判断する。

深夜「着信アリ」を再見。

「ひとりひとりに空はあるのよ」といった内容の台詞が印象に残る。
「他人から見た不幸の極み」も当人にすればそうでもないということか。

結局主人公柴咲コウは自らの虐待体験のなせる業か
友人たちを次々と殺した「怨念」と一体化してしまった模様。

「飴玉」もポイントで
ラストで堤真一はそれを飲み込むことによって「異常事態」を「受け入れる」。

実際に虐待を受けていた「しゃべれない」はずの幼い娘も
「飴玉をもらったこと」をまるで「いいこと」のように語り。

ついつい「ホラー」として吹石一恵が自ら首をねじ切るシーンに注目してしまいがちだけれど
「それぞれが納得していればどんなことでもアリなのだ」という「テーマ」を感じたり。

以前に観たときに気付かなかったことについてあれこれ。
ほとんど「違う作品」のように思えるのに驚いた次第。

不確かな記憶によれば当時は「つまらない作品」だと思ったはず。
いやはや「何を観ていたのか」と思わざるをえず。

これだから自分には信用できないところがある。
もっとも「あまりに信用できる自分」はそもそも疑わしいのだが。
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「未来」について

2012-10-13 02:26:57 | Weblog
晴れ。風強く肌寒い。

「軍国昭和 東京庶民の楽しみ」読了。

引き続き橋本治「その未来はどうなの?」を読む。

「結婚してもすることがない」というのになるほど。
「生活」がないとそうなるのは道理か。

もっとも自らの生活を省みてのことであって
そうでない人々が少なくないことは知りつつ。

著者の身体は結構弱っているようだけれど頭は相変わらず健在。
国民という「王様」は「みんなのため」を考えるべきだと。

わかりやすく言えば
文句ばかり垂れる「傍観者」から「当事者」になれということ。

ただし「当事者」になったところで
いったい何をしたらいいのかと迷うだろうという予想が容易についたりもする。

とはいえ「史上初」というのはそういうもので
それなりに苦労して「答え」を出す価値はあるだろう。

その種の「ゲーム」を始めてはいけない理由などなく
むしろ「チャレンジ」として捉えれば面白そうな予感もなくはない。

たとえば福島は否応なくそうした立場に立たされていて
「積極的な意味」を見出すならそこになるのではないか。

「ゴミ拾い」あるいは「清掃活動」をすることによって
いままで「疎遠」に感じていた土地が一気に「身近」になることもある。

そろそろ「手がける」ことの大切さを思い出してみてもいい頃かもしれない。
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「楽しみ」について2

2012-10-12 03:00:15 | Weblog
晴れ。仕事帰りにパラパラ降る。

青木宏一郎「軍国昭和 東京庶民の楽しみ」を途中まで読む。

新聞や永井荷風、岡本綺堂、古川ロッパ等の日記を参考に
当時の「庶民の楽しみ」を記録したもの。

年表風に横に並べて書かれた「見出し」の羅列は読みにくく残念。
「手に入る記録」すべてを「網羅」しようとしたものか。

「レジャー」という言葉が繰り返されるのがやや疑問。
1960年代に意図的に用いられた言葉で「過去」を描くのは違和感があるのだが。

とはいえ「軍国主義」がはびころうと「不況」に苦しもうと
「楽しみ」を求めて繰り出す庶民たちの様子は十二分に伺える。

この種のものに疎い向きは
昭和の始めからすでに「クリスマス商戦」があったことを知るのもいいだろう。

学生野球や相撲、川や海に出かけ「熱狂」する姿は現代も変わらず。
敢えて違いを挙げるならあまり「お金がかからない」こと。

実は「遊び」に最も必要なのは自分が利用できる「資源」であり
貨幣の量とは関係ないことも重要。

どんな環境にあっても「遊ぶ」子どもたちの姿を見てもそのことはわかるはず。
そして「屈託のない笑顔」もそこから生まれるもので。

そこに何事かの「意味」を見つけるのはかつて子どもだった「大人」たち。
当の子どもたちはただただ「楽しい」から遊んでいるだけ。

題材は何でも構わないが
そうした「大人」も増えると生きやすい世の中になりそう。

一見難しそうに思えて簡単なことはいくらでもある。

自らの「判断」の曇りのなさを無邪気に肯定できる「余裕」さえあれば。
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「瀬々のあじろぎ」について

2012-10-11 02:56:25 | Weblog
晴れ。シャツを長袖にする。

上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー(私注・女性嫌悪)」を読む。

著者が今さら吉行淳之介を採り上げ叩く理由には
「女好き=実は女ぎらい」を示す以上のものがあるように感じられてしまう。

勘違いだったら申し訳ないと頭を下げるよりないが
「吉行淳之介」という「ブランド」が通用するのは一定の年齢以上に限られるだろう。

「典型」としてというのはわかるけれど
ひょっとして彼の名前がある種の「伝説」として案外流通している「現実」があるのか。

そうした「前提」にいささか疑問を感じたものの
「いまだにその種の現実があること」をひしひしと感じているせいなら納得。

女子は今のところ「自分の承認」と「男からの承認」の間を生きるよりないらしい。
否が応でもそういう「環境」にいるのだと。

一方男子は「仲間からの承認=ホモソーシャル」を優先していて
「男として認められるため」に「男以外のものを排除する」というのはわかりやすい。

「東電OL」の「男を値踏みするための売春」という解釈にはなるほど。
ただしそこで「個人」でなく「男一般」に行ってしまうのが残念。

「身近」に理解者がいないとついつい「遠くを見る」のは人の常ではあるけれど
いずれ「島宇宙」ならお互いにそこそこ我慢しながら付き合える関係が望ましい。

もっとも「貨幣で時間を消すこと」に慣れたわれわれは
ついつい「即座の結果」を求めがちで。

さらには「理屈」で納得したはずのことを自らが「裏切る」のもよくあること。

「自分という他者」にもくれぐれもご注意を。
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「いつものこと」について

2012-10-10 03:25:08 | Weblog
晴れ。半袖だといくぶん冷えるか。

中野翠「金魚のひらひら」を読む。

政治に対する不信、同窓会、亡き母への思いなど
著者のスタンスが少しずつ重心を移し始めている気配。

おそらく3.11の大震災の影響だろう。
敢えて選んだタイトルには「バランス感覚」が伺える。

呉智英の「つぎはぎ仏教入門」を読もうと思って忘れていたことに気付く。
今度図書館で予約しておこう。

ところで。

子どもたちの日本語読解能力の著しい低下にいささか暗澹とした気持ちになる。
まるで「夢遊病」のように落ち着きのない彼ら彼女らよ。

あらゆる情報が文字からくることは確かで
それらが「玉石混交」であることさえそもそもは「読めた上での話」。

たとえば官僚が独自の「文学」を作り自らの「権益」を増やすことや
匿名の人物がいたずらに感情を刺激するコメントを書き散らすことなど。

かつてヨーロッパでラテン語が特権的な地位を占め
わが国で「真名=漢字」が優位を誇ったような「時代」がまたやってくるのだろうか。

そうした「漠然たる不安」は「気分」のせいだといいのだけれど。
「未来」に対してどうも悲観的になりがちな一日になる。

とはいえ所詮は「身近な範囲」での話に過ぎず
それを「一般論」にしてしまう愚は避けることにして。

よくも悪くも自分がいいと思ったものを伝えるしかない。
過去を振り返ってもそれしか出来なかった「事実」を思い出せば事足りるわけで。

何のことはない「いつものこと」。

自分も他人も含めた「貧しさ」を生きるよりないらしい。
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「好き嫌い」について

2012-10-09 02:42:54 | Weblog
晴れ。おだやか。

「映画時評 2009-2011」読了。

自分が見ていないものを見ている人には
自分が見ているものの「範囲」を教えられて楽しい。

とはいえそれはあくまで自分が「好ましい」と思った「範囲」に限られ
そうでない部分については相変わらず「盲目」であったりもする。

そのことを考えすぎるとめんどくさいので
自分も他人に対してそういう人であればいいことにしたりして。

ところで。

仕事場で小さな虫やクモが出ると大騒ぎする人に言うのが
「虫から見たら君が怪獣」。

もっとも個人的には「フライング・ゴキちゃん」に弱く
てらてらした羽根を光らせてこちらに向かって来られたら思わず声が出そう。

昔の知り合いには蛾や蝶が苦手で
谷啓の「ガチョーン」で「チキン肌」になる人もいた。

「探偵ナイトスクープ」でその種の「苦手なもの」を克服するシリーズがあるが
当人のリアクションたるや凄まじいものがある。

それでも何とかなるパターンが多いことを思えば
浮かび上がるのが「苦手って何」という疑問。

「食わず嫌い」同様
それらを「放置するかしないか」で結果は変わるのかもしれない。

少なくとも「無関心」でない以上
何事かに心が揺さぶられる「事実」だけが残る。

「好きはきらい、きらいは好き」

そこであなたが「試される」ことになるかもしれない。
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