退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「グレーであり続けること」について

2012-10-06 02:48:50 | Weblog
晴れ。日差しは熱い。

佐々木俊尚「『当事者』の時代」を読む。

戦争が終わった時に国民は「ニセの被害者意識」持った。
たとえば「軍部の暴走のせいでこうなったのだ」と。

もちろんそれはウソで
ごく普通のおじさんおばさんたちも戦争を賛美していたということ。

ベトナム反戦によって「被害者でありつつ加害者であること」に気付いたものの
やがてそれは「マイノリティ憑依」という「新たな正義」に取って代わられたということ。

「バブル時代」にもそれは変わらず
敢えて「奇妙な人々」を見つけることで「自らの安心」を築いたりもしたのだと。

今回の3.11東北大震災ではかろうじて地元の「報道する側」が「当事者」になり
そこに束の間「幸福な一致」が見られたというのが著者の「歴史観」。

「自分にとって都合のよい現実」が切り取られやすく
なるほど人は「自分にとって好ましいもの」しか見ないという「事実」はわかる。

また少なからぬ数の人々が頼まれもしないのに「代弁者」となる
「マイノリティ憑依」の恐ろしさも同様に。

ここで著者に聞いてみたいことを少々。

「幸福な一致」が「同じ被災者」となることでしか実現しないなら
そもそも「まともなジャーナリズム」など望むべくもないのではないかということ。

たとえば映画監督園子温は被災者への取材をもとに「希望の国」という作品を作ったが
その内容をどう判断するのだろうかということなど。

個人的にはむしろ「当事者」になれないからこそ「見えること」が重要なような気がするのだが。
もちろん「憑依」は避けた上でのことで。

「当人しかわからないこと」を「神聖視」するのは
別種の「マイノリティ憑依」になりそうな気もするし。

もっとも著者は「宙ぶらりん」の大切さを述べてはいてそこには同意できる。
ただ繰り返すが誰もがそれに耐えられるわけではなく。

声高に「正しさ」を訴えない「非当事者」。

「正解」はどこにもないのだから
「参考意見」を出すあたりで留まることのできる「姿勢」が好ましいと思われるが如何。

とはいえ人はついつい「正義の快感」に溺れるやすいので
それを拒絶する「体力」だけは身につけておきたいところ。
コメント
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