雨。仕事帰りには止む。
吉岡友治「だまされない<議論力>」を読む。
読むということを手抜きなくすると「当然」な内容。
もっとも現実にその「当然」はあまりないのだけれど。
「論理的なことは冗長なこと」という大森荘蔵の言葉が引用されているのに納得。
要は「同じこと」をいかに人は「遠回し」にかつ「繰り返し」語ることか。
そのことの「正しさ」を認識するものは
果たして「簡潔」に語って終わるかどうかというとそれも難しい。
たとえば小説家としての大江健三郎は優れているものの
何事かに意見を述べる彼はむしろ「ダメの人」。
だからと言って小説家としての評価が下がるわけでもない。
両者を無理やりに「一致」させる必要がないだけの話。
敢えて海外の小説家の例を持ち出すなら
サルトルに「聖ジュネ」と言わしめたジャン・ジュネは「泥棒」だったり。
「同じ人」であってもいろんな面があるのはむしろ「常識」として受け止めたいところ。
それぞれに自分を振り返ってもわかるはずで。
「論語」のせいで孔子がまるで「聖人」のように扱われたりするのも実はおかしく
あくまで彼が「述べたとされること」に価値を見出せるだけ。
そのことを描いて見せた呉智英はさすが。
ただしだからと言って彼のあらゆる言説が「正しい」わけでもない。
いたずらに「正しさ」を求める人々によって「聖人」が生まれるだけのこと。
われわれもそろそろ「自前の判断力」を持つ時期に来ているのだろう。
吉岡友治「だまされない<議論力>」を読む。
読むということを手抜きなくすると「当然」な内容。
もっとも現実にその「当然」はあまりないのだけれど。
「論理的なことは冗長なこと」という大森荘蔵の言葉が引用されているのに納得。
要は「同じこと」をいかに人は「遠回し」にかつ「繰り返し」語ることか。
そのことの「正しさ」を認識するものは
果たして「簡潔」に語って終わるかどうかというとそれも難しい。
たとえば小説家としての大江健三郎は優れているものの
何事かに意見を述べる彼はむしろ「ダメの人」。
だからと言って小説家としての評価が下がるわけでもない。
両者を無理やりに「一致」させる必要がないだけの話。
敢えて海外の小説家の例を持ち出すなら
サルトルに「聖ジュネ」と言わしめたジャン・ジュネは「泥棒」だったり。
「同じ人」であってもいろんな面があるのはむしろ「常識」として受け止めたいところ。
それぞれに自分を振り返ってもわかるはずで。
「論語」のせいで孔子がまるで「聖人」のように扱われたりするのも実はおかしく
あくまで彼が「述べたとされること」に価値を見出せるだけ。
そのことを描いて見せた呉智英はさすが。
ただしだからと言って彼のあらゆる言説が「正しい」わけでもない。
いたずらに「正しさ」を求める人々によって「聖人」が生まれるだけのこと。
われわれもそろそろ「自前の判断力」を持つ時期に来ているのだろう。