山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

またいじめによる自殺

2013-07-16 18:35:24 | 日記
いじめ事件
最近、大津中のいじめ事件のことがニュースになっている。昨日、私は杉並区の散歩をしていて、「和田中」という学校に出くわしたとき、「テレビで新しい教育が話題になっている学校」というこ...


gooブログで、昨年自分が書いた記事が送られてくる。今日、それを見て唖然とした。
昨年私が書いた記事は「いじめ事件」についてだった。
ちょうど昨年の今頃、滋賀県の大津中で、いじめによる自殺事件がニュースになっていたのだ。
たまたま、昨年の今頃、中野杉並地域を歩いていて、大昔いじめ事件があった中野富士見中を思い出したこともあり、いじめ事件について、何年たっても日本から無くならないことをブログに書いていた。

自分で書いておいて、大津のいじめ事件については、詳細な内容を忘れている。たった1年でだ。
あらためて調べてみると、いじめられた子が自殺をしたのは、昨年の今頃ではなく、その前の年(平成23年)の10月だったことがわかった。
そして、その事件の状況がひととおりあらわになったのが、昨年の今頃だったらしい。この事件では、自殺をした子は、いじめられてはいたが、自殺といじめとの因果関係ははっきりしないなどとされていたそうだ。
どう考えても、関係が無いはずはなく、教育現場ではいじめが起こっているのに、いじめとは認識せず対処もせず、いじめられた子が自殺をしてしまっても、いじめとの関連性があるかどうかわからないなどとしていた。
いじめられていた子の両親が、被害届を警察に何度も提出し、最初は受理されなかったが、マスコミの報道などにもより受理されるに至り、7月11日には、学校と教育委員会に警察の強制捜査が入った。その後、14歳以上のいじめの加害者は書類送検され、刑事罰が科されることとなった。学校と教育委員会の隠ぺい体質が問題となった事件だった。大津市では第三者委員会を立ち上げた。

今年になって6月、国会で「いじめ防止対策推進法」が国会で可決されたのは、大津の事件がきっかけであったといえる。
しかし、そんな状況においても相変わらずまた同じような事件が起きてしまった。今回は名古屋市の中学で、やっぱり2年生だ。
今回はさすがにいじめと自殺の因果関係があきらかなことは最初から認められているが、だからといって何の解決策にもならない。死んでしまった子は返らない。

また、担任の先生と生徒たちの証言にも食い違うことが多く、少年が自殺する直前の帰りの会が一体どういう状況だったのか、すっきりしない状況だ。

先生が自殺をあおった等という生徒がいる一方で、教師の言い分は、死ねと言われていることも認識しておらず、自分は何も言っていないというのだから、まるで整合がとれない。

私自身も、自分が思わぬ方向に言葉を受け取られてしまったことがあり、言葉とは本当に恐ろしいものだと思う。
たとえば、ある役職者が「わたしだってこんなめんどくさいことはやりたくない。」と言ったので、私は「だったら、やめればいいじゃないですか」と言ったことがあった。私は「そのめんどうくさい行事を開催することをやめればいいじゃないですか」と言ったつもりだったのだが、実はその人が「めんどくさいことはやりたくない。」というのはその役職をやりたくないという意味だったらしい。その場にいた人はみんなその人が「好きでこの役職をやっているわけじゃない」と受け取っていたのに私だけが「好きでその行事をやるわけじゃない」と受け取っていた。私はその行事のやり方に対して以前から反対だったので、その役職者もその行事について言っているのだと思いこんでしまった。
すると、いつの間にかその役職者が「こんな失礼なことを言われたのは生まれて初めてだ」と、かんかんになって怒っていたので、私には何がなんだかわからなかった。なんで、行事に対する自分の意見を言ってはいけないのかわからないし、それが失礼とはどういうことなのだろう。すると、その場にいた人々が「山本さんがその人に失礼なことを言った」という。私はそんなことは一言も言っていないといったら、周囲のみんなが「言ったじゃないですか」「私も聞いた」「役職を降りろなどと面と向かって言うから驚いた」「みんな聞いているんだから、今さら言っていないなどとはごまかせない」と言った。
そこで、よくよく考えてみると、役職者が「私だって好きでこんなことをするんじゃない。本当はやめたい」というのを、私1人が役職のことではなく行事をやめると勘違いしていたことがわかった。すべてはその誤解から始まっていた。しかし、その誤解に気付いたのは後になってからだった。その後当人に、そういう意味でいったのではないと弁解して謝ったのだか、結局許してもらうことはできなかった。本気で役職を降りろと言っておきながら、状況が悪くなったので取りつくろってごまかそうとしたとしか受け取られていない。今でも私は失礼極まりない非常識な人間と思われているらしい。

だから、「死にます」「できるものならやってみなさい」などということも「死にます」自体を聞き逃していたら全く別の意味であったはずだ。しかし当人の知らないところで「死ねるものなら死んでみなさい」などと言う意味になってしまう。

私はそのほかにも失敗している。ある時、いつも一緒に行動をしていた人(Aさん)が別の所に行ってしまい、私はさびしい状況が続いていた。その状況にはなかなか慣れることができなかったが、1年くらいしてようやく寂しさを感じなくなることができた。そのときに、その人や他の人と再開する機会があったが、「いまAさんがいないけどどんな感じですか?」等と聞かれた。そのとき私は「やっと1人に慣れました」と言った。ところがこれが「やっと1人になれた」(つまり最初から1人がよかった。Aさんと一緒はいやだった。Aさんがいなくなってせいせいしている)かのように受け取られてしまったのだ。「ええっ???」と周囲のみんなが変な表情になった。「いや、そういう意味じゃなくて、Aさんがいなくなってしまって最初はさびしかったけど、最近やっと1人でいることに慣れました」と言い直したのだが、最初の言葉から受けた印象は拭い去ることができない雰囲気になってしまった。
いろんな意味にとれる言葉には要注意だ。

また、あるとき、近所の小さな子が私に向かって何かいろいろ話してきた。自分の名前は芸能人の名前と同じだが、親がファンだからだとか楽しい話をしていた。そのあと、「パパはいないの、×××ちゃったんだもん」などと言っていた。私は「×××」のところをよく聞き取れなかった。聞き直すのもちょっと不自然だったので、無難なところで「ふ~ん、そうなの」と答えてニコニコにしていた。そして「離婚でもしたのかな?」と思っていた。
後でわかったところ、その子が赤ちゃんのころに病死してしまったそうなのだ。「ふ~ん」なんて暢気に答えている場面ではなかった。「えっ?そうだったんですか・・・そんなことが・・」と血相を変えるのが普通だろう。その場にはその子のお母さんもいたのだが、どんなに他人の不幸に無頓着な人だと思われたことだろう。

だから、今回担任の先生が「死ね」とか「死ぬ」なんて言う言葉は聞いていないということであり、もしかしたら何か別のことに対して「そんなことできるわけない」と独り言でも言っていて、その「そんなこと」は全く意味の違うことだったかもしれない。記憶をたどると何かわかってくるかもしれない。

言葉を聞き逃したり、間違って受け取ると大変なことになる。
深刻な場面を聞き逃し、見逃してしまい、適切な対応をすることができなかったのは、担任の先生としては悔やんでも悔やみきれないことだろう。

どっちにしても、学校にいじめる子がいて、人の命をなんとも思わないような言動が日常茶飯事起きている事が異常だ。何とかしなくてはいけない。


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