こんにちは。気がつけば6月が終りである。梅雨の真っ最中でもある。雨が降るたびに道行く人の顔になぜかしら重い顔つきであるように見えてしまう。傘をさす中の顔は何を思いながら出かけていくのだろうか考えてしまう。こんな日に、散歩に行けばいちばん光っているのは植物くらいかもしれない。花びらに水滴がついて美しさも倍増あうるようだ。「水もしたたる〇〇」という感じだ。
7月に入ると第1週に参院選告示日がある。今年の選挙の大義はなにかなと思う。ぼくに言わせれば「ながーい政権は腐る」の思いで選挙を考えて行動しよう・・・というところだろうか。安倍政権は長すぎる。長くやってもいい政権なら何もいわないが、首相のいう経済は少しもよくなっているとは感じられない。どこでそう思うえるのか、きっと最上階の天に住んでいる気持ちで言っているのだろう。地上にすむぼくにはまったく景気がいいなどという気持ちにはなれない。現実をみれば給料は上がらないし、物価だけがいつのまにか上がっている。黙っていると何でも上がっていて、既成事実優先の政治が続くような気もする。沖縄でも、辺野古新基地工事も県民投票の結果がでても、何もなかったように続く。揚句のはてに自民党議員が辺野古工事業者から献金を受け取っていたと報道された。それも無視している。これが7月の選挙にどういう結果をもたらすのか・・・。
6月も終わりですかね。一年の半分が終わったことになります。一年の折り返し地点でもありす。途中、「平成」から「令和」へと元号もかわり、世の中は、いかにも新しくなったような気分をつくろうとしていました。「たかが元号されど元号」という気持ちを持ちつつ、「令和」をむかえたように思います。とはいえ、政治は安倍政権があいかわらずの「くさいものにフタ」で都合の悪いモノには知らぬふりで、大した成果もない外交にはメディアを借りて宣伝しまくりの状態であるように見えました。選挙も近づいているための宣伝だろうということは、だれの目にもわかるところです。
人の脳裏には、実績よりもいつのまにかイメージが支配をするような気がします。形あるものをつくるまえにイメージが先行すように、その残像が色濃くなっているような時代であるようにも思えますがどうでしょうか・・・。
さて今月は、高齢者にまつわる本を読んでいました。高齢者というより「昭和」という時代をふり返ってみたような本でした。これまで、歴史といえば学校の教科書で勉強した内容が頭のなかにはありました。実際には、もっと細かいところではどうだったのだろうという興味がわいて、さっそく日本史の読んでみました。事件はあるひ突然に起きているのではなく、それなりの背景があるものです。これまで日本が戦争や事件があるなかでつくられてきたわけです。その、歴史をちょいとばかり読んでみようと思いとった『日本の歴史』でした。とくに「昭和」という歴史にはいちばん身近に感じていました。「歴史は繰り返す」とよくいわれます。繰り返して、結果としておなじような出来事があるようです。それでもその中身は時代によって、変わっているようです。「令和」の時代をむかえるにあたってこまでの小さな出来事が重なってできあがってきたわけです。そんな歴史を読めればと思っています。
p18 私は説教がきらいだから、高齢者を大事にしろ、などといわない。しかし、現在の<高齢者切りすて>の政治を見ていると、おまえら、誰のおかげで生活できるんだ、と役人・政治家にいいたくなる。・・・年金や高齢者保険の関係の勝利が送られてきて、まずゾッとするのは、細かい文字がギッシリつまっていることだ。老眼鏡をかけていても、読むのは至難のわざである。拡大鏡を使っても、読めないことがる。
p20 何十年も国民が働いて、いちおう国が復興させた、その事実の重みに背を向け、国民から吸い上げた莫大な金を使い放題、天下りをくりかえして、個人的な集金にいそしむ――こんな奴らのために<戦後>はあったのか!
p64 ぼくはクスリをやらなかった。やりつづけていた友人は、近年、亡くなった。クスリをやらなかったのは、ぼくが臆病だったからである。とはいえ、酒が飲めないから、正直逃げ場がない。
p79 <定年後>に関する本は、政治にはいっさい触れていない。現在の政治(役人をふくむ)に触れたとたんに、すべての記述がグラグラしてくからだろう。
p86 bマイホーム <老後の準備>のところですでに述べたが、マンションか一戸建てかは別にして、この問題を六十か六十五で解決しておかいないと、きついことみなる。多額の収入がある人は、別だが――。
特技 ひとことでいえば、ほかの人にはできない<何か>である。これがあれば、年金が少なく、貯蓄がない人でも、なんとか生活していける。いってみれば、職人仕事なのだが、<職人>というとそれだけでむずかしくきこえるがから…。
<老いては子に従え>ということわざがある。老人は年をとって日々の生活も思うにまかせないことを経験している。ときどき、昔みて感動した映画の俳優の名前など忘れていることが多い。現実の生活においてはそれほど障害にはならないまでも思い出せない。共演した俳優の名前も出てこない。とはいえ、思い出さなくともなんの支障はないものの、知らないより知っているほうがいい、というくらいことである。いつでも、入り口はわかるのだが、その入り口からいろいろな場所があるのだろうが、それが思い出せない、といった感じである。年をとったということがこれほど記憶力を遠ざけていくとは恐ろしい。
『<後期高齢者>の生活と意見』(小林信彦)という本は老人になってからつくづく「本当に老人」あるいは「弱者」のことを政治は考えてはいない、ということを分からせてくれる。政治もそうだが、何かにつけ書類などの仕様書なども理解不能、文字が小さくて読みずらいなど、よほど老人はどうでもいいとでもいいたげなものが多いことに気づかさせてくれる。そして思うのだが「国は人を本気で助けようなどという気がない」ではないか?。それも、役人が分からせようということより、よってたかって諦めさせようとよっていう気持ちで対応してようにも思えることがある。全員がそうではないだろうが、あきらかにたらいまわしのお役所仕事というところが見える。(これは黒澤明監督の『生きる』という映画で市役所の各係の様子がリアルに描かれていたなー)。
どこかで<学習とは闘いである>という言葉を聞いたことがあるが、本気で自分にわかるように書面と対応を要求するには、役人と闘う覚悟が必要になっていることを覚える気がすることもある。
そういえば、これも昔みた映画だが『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)を思い出した(最近もう一度みたくてDVDを借りてみたからまだ記憶も新しいよー)。主人公のダニエル・ブレイクは大工の仕事にながい間まじめに仕事をしていた。ところが、年をとって心臓の病気になる。仕事が好きだからまた仕事をしたいと思うが病気で医師から止められていた。その間、経済的援助を国に求めるために制度を利用することになった。ところが、係員の理不尽な対応によって援助を受けることができなくなってしまう。再度、援助を受けるべく行動にでる。しかし、どれも援助ができるような手助けがない。むしろ、「泣き寝入りしてしまえ」とばかりの対応に厳しい現実がまっていた。そんな中、引っ越してきた2人の子持ちのケイティに出あう。ケイティの助けもあり、ようやく、援助を受けられるまでこぎつけた・・・。
そして<この国にはまじめに働いてきた老人の助けようとする方法はないのか・・・>というメッセージがいわれているような映画である。
英国でも老人は現役労働者にとっては<めんどう>な存在であるように見える。それぞれ、何十年も先の老人を想像している若者はいない。自分のことでせいいっぱいなのだ。それが誰のせいなのかより、身近な弱者にその怒りのホコ先が向いてしまっているような気さえする。
そんなことを考えながら、だいぶ横道にはいってしまった。『<後期高齢者>の生活と意見』では、後期高齢者となって、いま生きている社会と自分の対応を模索紹介している本でした。
最近、「今の世の中はこれまでのたどってきた、どこかの時代に似通っているなー」という思いを強くもっています。「令和」になって「一強多弱」という政党政治には、「立憲政治」とよべる国会がますます遠のいて行っているように見えます。そして、政治家がいくら議論を重ねても耳をかさない勢力が勃興しはじめていきます。今では、政治家よいうより官僚がその筋道をつくりつつあるように見えます。その政策は、最終的にはあまりにも強行に、議会政治をふみにじった国会になっています。これまでの国会審議の「強行決議政治」は到底、政党政治の域をこえひたすらどこかへ向かっているような気がします。それらの様子を見るたびに「こんなことは遠い過去にきっとあっただろう」と。そんな歴史の一部分を切り取って、似通った部分を分析して対策を(いい方向へ)つくるのが歴史の大切さでしょう。
『日本の歴史24・ファシズムへの道』(中公文庫)は、日本のターニングポイントとなる時代です。政党政治がいつのまにか軍事政治にとってかわっていく時代です。その背景には金融恐慌あり、農民の疲弊あり、災害ありの世の中におきていく出来事は無関係ではありません。昭和のはじめ日本は平和な国であったはずです。誰もが戦争など求めてはいなかったはずです。それでも、戦争へ突き進むできごとが起きる中(2・26事件、5・15事件、治安維持法による弾圧など)国民もその「力」に同調していかなければならなくなっていく「空気」ができあがっていきます。もう逆戻りできない力となって突き進んでいくようになり戦争になっていきます。ファシズムの時代へ突き進んでいきます。
ここ10年の間に「派遣労働者」「非正規雇用」という人たちがなんと多くなってきたことを感じていました。一方、豊かさを象徴するかのように中国人旅行者の多いことに気がつきます。これが経済の繁栄の象徴ということなのでしょうか。半世紀前までは日本が豊かさを謳歌してしていました。こんな様子を見るたびに、いまや日本は経済大国でもない貧しい国になっていっているようです。事実、子ども食堂が年々増えたり、豊かさに追いつくために「過労死」や精神疾患の労災認定が増えていく傾向になっています。いったい、労働の現場の実態はどうなっているのだろうかと疑問に思います。思えば安倍首相の「日本を世界で一番企業が活躍しやすい国」や「働き方改革」などと豪語したことを思い出します。その中身は、格差がますます広がり、低賃金で、非正規雇用が増えていく一方です。いつのまにか、労働者の権利は奪われ、残業代も払わないブラック企業という言葉が生れてきてしまうのが現実です。
『雇用身分社会』森岡孝二著はそんな背景を書いています。まさに「女工哀史」時代の再来ともいえるのが今の現実とも述べています。とくに、派遣社員の差別と無権利状態を「雇用身分社会」と言っています。なぜ、これほどまでに派遣社員が増えてきてしまったのか、労働力の需要と供給のバランスが崩れ、少子高齢化が拍車をかけています。ぼくが思うに労働者の「囲い込み」がつくられているように見えます。資本主義が到来する時代、牧歌的な農村風景は工業化にかわり、労働力は都市に集中していきます。さらに、集中した労働力をわけるために「差別」をつくり、正規、非正規という枠組みをつくっているように思えます。それを一手に派遣会社がになう。いつのまにか労働者は貧しから抜け出せなくなる図式ができあがっていったように思います。さらなる労働力不足で外国から労働者をつれてくりょうな時代になっています。
ぼくが思うに、もうちょっと賃金を上げたり、正規社員を増やしたりすることが大事なことなのではないかと思うのです。企業の利益は史上最高のなっているのに労働者の賃金は減る一方とはいったいどうなっているのでしょうか。よくニュースになる児童虐待や高齢者虐待の背景には働くことの不安定さが大きな原因だと思いますが・・・。
最近、医者も無給の残業が横行しているというニュースになっていましたが、命をあずける人さえもこんな労働状況になってしまっているとのことです。ほんとうに法律は守られているのかも疑問です。それを見逃しいるという現実は恐ろしいことです。「自己責任」ということが派遣社員が増えるにつけ多く聞かれたようです。本当は「自己責任」で片づけるほど簡単なものではないのでしょう。「自己責任」で片づけられるほど余裕などないのが現実ですわ!。
p222 汽車にあって電車にないのは「未練」である。このまま行こうか戻ろうか。発車ベルが鳴っても、まだ間に合うのが汽車だった。ちあきなみの「喝采」には《動きはじめた汽車に/一人飛び乗った》というフレーズがある。ドアが電動でないから、未練を断ち切って飛び乗ることもできるだろうし、思い直して飛び降りることもできた。
「昭和」・・・。ぼくにとっては年齢も若かったこともあっていい時代でした。だれが今みたいな時代がくると思ったでしょうか? なんて老人になって思っています。ですが、よくよく考えてみれば、政治家だってダメな政治家もいましたが、まじめでしたよ。野党に女性問題で追及されたり、ロッキード事件で「ピーナッツ」って騒がれたりした首相もいました。ハレンチな事件を起こしたら、ちゃんと大臣をやめましたよ。今の首相みたいに知らん顔をしてはいませんでした。うらを返せばそれだけ野党が多数いたからでしょうか・・・。ぼくは、野党にもハレンチな政治家はいたと思います。与党から追及されれば辞任もしました。
ぼくの若いころの野党の政治スローガンに『流した汗がむくわれる政治』というのがありました。自分ががんばった分ちゃんと報われるような社会に、ということなのでしょうか。少しはくむわれていた時代でした。いまはどうでしょうか。『無意味な努力』という言葉が浮かびます。本人のとっては無意味だと思っていないし、そのために頑張っているのでしょう。そして『自己責任』でしょうか。
大学生がどんなに頑張っても「内定」がもらえない・・・。という現実。『男はつらいよ』という映画の何作目かに、寅さんの甥っ子の満男ちゃんが就職活動をつづけるシーンがありました。何軒まわっても「内定」にならずくさっていました。面接では自己アピールするたびに、本当の自分なのか不安になっていく姿が印象的でした。それでも頑張っている満男ちゃんには話せるおばちゃん、叔父さんがいました。誰よりも励ましてくれていました。そして就職。ようやう社会人になっていきます。
大事なのは頑張っている姿を誰かがみていて励まして、みんなで喜んでくれる社会だったと思います。就職できないのは、本人の努力も必要なのでしょうが、もっと大切なのはがんばった人たちをちゃんと保障することです。それが社会です・・・。そして責任をもって考えるのが政治家の責任です。
そして「令和」・・・。子どもがこれおほど虐待された時代はないでしょう。多くて、どこでどんな虐待があったということもあやふやになってしまうほど、枚挙にいとまがない。年金問題にしても、老人は希望どごろか絶望をつくり出している。そのために何かことかと思えば、応答しない。まさにプログラムになければ「OFF」状態にしてしまっていく。これが現実でしょうか。
梅雨のあいまをみて傘を手に持ち散歩に行くことが多くなる日々である。散歩は休養日の唯一の娯楽(?)みたいになっている。走るでもなしにゆっくり路地や〇〇街道などを歩いていくと、「昭和」そのものに出会う。いちばん目にするのは「よくぞ、ここまで住みなすった・・・」と思うほどの家屋である。住んでいる人の顔もみたい気がしてしまう。感心している一方で「おそらく、この家屋はこの代で終わりだろう」と思う。楽しみも悲しみもそして苦しみも汗と涙のしみついた家屋である。きっといろいろなことがあったに違いないとおもうことが多い。いまでも現役で頑張っている。
「年金100年安心」ということが幻想であることにはやく首相は気づいてほしいものだ。いや、本人は気づいているのだろうと思う。90歳まで生きるには「2000万円貯蓄」をしないと老後は暮らせないという金融庁の発表にはあきれしまった。そんなの無理だ。夫婦して国家公務員か資産家でない限り無理だ。それも、投資で貯蓄する、と。だいたい、投資をするには余裕がないと出来ないでしょう。日々すかすかの生活をしている人にとってはまさにギャンブルだろう。これからカジノもできるしそちらもあるとでも言うのだろうか。そうしたければ、出来るように年金をまっと多くしてほしいものである。散歩が唯一の娯楽のぼくにも当然、無理な話である。
「昭和」から「令和」まで頑張ってきた人たちをもっと大切に扱ってほしいものである。いずれ、黙っていても朽ちていく身なのであるから・・・。いままで頑張ってきた人にゆっくり自分の気に入った家屋で最後くらいはゆっくりさせる場所や時間をちゃんと提供するのが政治の役目であろう。それさえもできなくて何が大臣だろうか。まして、手も足もでなくなった者に対してで、まさに傷口に塩をぬるような政治はやめてほしいものだ。
月末の本紹介をしました。ほとんど読み終えて感想もノートにとっていないことに気づいていました。ページをめくって「こんな感じ」の思い綴ってみました。最近、労働関係の本を読むと必ず「働き方改革」という言葉がでています。これほど派遣社員が増えて、職場では会話のない日々がくるとは思ってもいなかった。そして思うことは派遣会社がますます大きくなる社会は本当にいいのか、という気がする。その実態は「二重搾取」されているようにも見える。派遣の人も本当は正規社員になりたいのだろうと思けれど・・・。会社も正規社員をほんとうにつくろうとしているのかなあーと思えます。そんな体制をつくるようにも見えない。
とはいえ、明日から7月。そんな一か月になるのでしょうか。
月末には野党がたくさん増える選挙結果にしたいものです。それではこの辺で失礼します。
読んでくれた人、ありがとうございました。
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