パピとママ映画のblog

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ハッピーエンド★★★

2018年05月16日 | アクション映画ーハ行

「白いリボン」「愛、アムール」の鬼才ミヒャエル・ハネケ監督がイザベル・ユペール、ジャン=ルイ・トランティニャン、マチュー・カソヴィッツはじめ実力派キャストを起用し、崩壊寸前のブルジョワ家族が織りなす愛憎模様を綴った群像ドラマ。3世代が暮らす豪邸を舞台に、心を閉ざした13歳の孫娘と死に取り憑かれた祖父との出会いをきっかけに、家族それぞれが抱える秘密や闇が次第にあぶり出されていくさまを、シニカルな筆致で描き出す。

あらすじ:フランス北部の港町カレー。風光明媚な海岸沿いの瀟洒な大邸宅に3世帯で暮らすロラン一家。隠居した家長のジョルジュはもっぱらどうすれば死ねるかを考える日々。一方、家業を継いだ娘のアンヌは精力的に仕事をこなしていた。アンヌの息子ピエールは専務職を任されていたがビジネスマンとしてはナイーヴ過ぎる面があった。アンヌの弟トマは医師として働き、若い妻と再婚していた。そんな中、トマの前妻が急死し、彼女と暮らしていた13歳の娘エヴがロラン家にやって来る。しかし冷め切った心で世の中を見つめるエヴは、父親にさえ心を開こうとしなかったが…。

<感想>ミヒャエル・ハネケ監督作品には、毎回驚かされる。本作品でも、日常の中の究極の哲学的メッセージを込め、人の心を震わせるそのマグニチュードは巨大であります。5年ぶりの新作ですが、パルムドール二冠の監督となれば、予算の確保など、どこ吹く風ではないかと第三者は考えがちだが、それがヨーロッパの共同プロデュ-サーが、大赤字が出るのではないかと大いに懸念をしたために5年のギャップが出来てしまったというのだ。それに、主人公の女性役が、体重が120キロもある肥満の女性ということで、相応しい女優が見つからなかったというのだ。

それに、物語の舞台がフランスのドーバー海峡に面したカレー。ここは世界に悪名をなす“ジャングル”という難民キャンプのあった街として知られる。ヨーロッパ大陸を横断し流れ着いた難民がイギリスに密航できずに出来上がった巨大なキャンプの町。撮影当時はあったそうで、現在は撤去されている。カレーは、難民問題の象徴のようなところなのだ。

監督は移民問題について描こうというわけではない。この屋敷で働く移民の人たち。我々の移民に対する姿勢として、その形で監督なりに移民問題に触れている。人々の無知や無関心について触れたのは、今回が初めてではないと言う。

それに、高齢で認知症の父親には、「愛、アムール」で親子を演じたジャン=ルイ・トランティニャンが演じているし、その娘のアンヌ・ロランをイザベル・ユペールにして、親子役で再共演。豊かな中産階級の家族を描くドラマに仕立て上げている。

 

そして「少女ファニーと運命の旅」で主人公の妹を演じたファンティーヌ・アルドゥアンが、重要な役割を担う13歳のエヴに抜てきされた。

家族を崩壊した医者のトマである弟には、マチュー・カソヴィッツが扮している。他にもアンヌの息子ピエールには、フランツ・ロゴフスキが。

「ハッピーエンド」という逆説的なタイトルの裏には、身勝手で無知蒙味な我々という中産階級に対する怒りが込められていると言うのだ。一代で財を成した富裕層一族に於いて、後継者として采配を振るうのがアンヌをイザベル・ユペールが演じている。知性をそなえた伝統的な金持ちの令嬢ではなく、野心的な単身成り上がりのキャリア女性でもなく、中産階級の知恵を蓄える女でもない。

ユペールの役どころが掘り下げられる作品ではないのだが、しらを切り続けることで、家族の運営をつつがなく見せかけることに長けたアンヌは、無関心によって水面下の惨劇を支えるオールドミスと言う役どころでもある。

一見平穏そうなスクリーンの雰囲気のせいで、その怒りは見逃されがちですが、工事現場で事故が起こるというシーンが間接的にそれを象徴している。(コンクリートの壁が崩れ落ちるというアクシデント)

タイトルの「ハッピーエンド」とは、もちろん一般的な意味での幸福なエンディングなど用意されていない。それどころか、観客を呆然とした境地に陥れたまま、映画はまるで何事もなかったかのように静寂の海と地平線を映し出して終わる。この「非情さ」がハネケ映画の特徴のひとつと言えるだろう。

本作の核となるのが、現代のSNS社会におけるディスコミニュニケーションであります。冒頭での洗面台で寝支度をする女性。無防備なその姿をスマートフォンの縦長の画面が捉えている。女性は撮られていることに気づいていない。夜の暗がりに身を潜める観察者の正体も定かではない。彼女の一連の行為、歯磨きにうがい。ブラッシング、排泄、消灯と、それは毎夜繰り返されているのだろう。そのことが、画面下に現れるバルーンメッセージで暗示されるからだ。

そこには彼女の行動が、一足早く書き込まれる。まるで先を読み、自分の予想を確認しているようだ。何のために?・・・もちろんエヴが母親を殺すために。これが映画の冒頭であります。視線は暴力を刺激する。いや視線こそ暴力なのだ。その暴力の行使を、その行使からもたらされる快楽を、観る者も共有せざるを得ないのだ。ですが、本作ではこれまでの犯罪映画とは違った感触がある。スマホの軽便さによるものなのか。それとも別の何かによるのか。

やがて、観察者の正体は幼い少女、エヴ(ファンティーヌ・アルドゥアン)であることが明らかとなる。しかしこの映画は、恐るべき子供の凶行を描こうとするものかといえば、そうではない。先に挙げた映画の犯罪者はいずれも性的欲望に支配されているが、エヴの透きとおるようなその視線は、その重苦しさとは無縁である。むしろ彼女自身も死に憑かれていることが、その後の自殺未遂の騒動で明らかとなるからだ。

彼女は祖父の家に迎え入れられことで、少しづつ変化が訪れる。最初の夕食の時に、彼(ジャン=ルイ)は孫娘の存在が「妙な気分だ」とこぼすのだ。エヴが母親を薬で殺したことに気が付く祖父。実は、自分も妻を殺しているからだ。

この老人は突然失踪したり、拳銃の調達を理髪師に頼んだりと、奇行を見せ始めるのだ。だが映画は、二人の決定的な対決を繰り延ばし、いくつかのプロットを・・・建設現場での事故や、強い母(イザベル・ユペール)によって抑圧された息子ピエール(フランツ・ロゴフスキ)の家庭劇などをたどっていく。

そして二人の経過は、自殺未遂騒動と、エヴの退院後にジョルジュの書斎で果たされる。長回しのよるワンシーン・ワンショットが多用される中、切り返しが効果的に駆使されている。

老人から少女へと、隔世遺伝のように継承されていく死の欲望。自らの深い淵を覗き込むように、あるいは鏡の虚像を見るように、彼らはお互いを見据える。無情とも言える静けさがあたりを支配するのだ。わたしたちを取り囲むこの世界も、そしてわたしたち自身も、その真ん中は、空っぽだ。

最後に、老人と少女は海へと向かう。終末後の世界に残された生存者のように。澄んだ海の青さの中で演じられるのは、当然ながら視線と死が交錯する遊戯でもある。老人は車いすごと海の中へと消えてゆく。少女はそれを止めることなく後ずさりをしながら眺めている。そこへ、慌てて駆けつける娘のアンヌ・ロランたち。映画はそこで終わってしまう。

この映画の中では、SNSが重要な役割を果たしています。エヴのSNSの投稿は、どこかで誰かに発見されるかもという思いがあるからだろう。

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