三保三隅駅で、姪の到着を待ち、親族6名で、奥つ城に向かった。
この三保三隅駅は、昔からずいぶん縁がある。祖父母の家へ行くときには、行きも帰りも利用した。
その上、中・高の6年間、浜田へ通学した私にとっては、登下校のとき、必ず通過する駅でもあった。
特に戦後の間もなくは、復員の兵士や引揚者などで、汽車が混み合い、通学生の多い三保三隅では乗車できないことが幾度かあった。そういう折、すでに乗車していた私たち数名は、三保三隅駅で下車し、公認欠席の扱いを受けたものである。
そんなある日、帰宅のための下り列車を待ちながら、下掲の写真にある鉄道碑をとり巻く丸石に腰をかけ、紙縒(こより)をよったことがある。
今思い出すと、紙縒を作るための紙が、用紙不足の戦後、なぜ手元にあったのかが、不思議である。そして、誰がより方を教えてくれたのかも思い出せない。実に朦朧とした思い出である。
特に戦後の間もなくは、復員の兵士や引揚者などで、汽車が混み合い、通学生の多い三保三隅では乗車できないことが幾度かあった。そういう折、すでに乗車していた私たち数名は、三保三隅駅で下車し、公認欠席の扱いを受けたものである。
そんなある日、帰宅のための下り列車を待ちながら、下掲の写真にある鉄道碑をとり巻く丸石に腰をかけ、紙縒(こより)をよったことがある。
今思い出すと、紙縒を作るための紙が、用紙不足の戦後、なぜ手元にあったのかが、不思議である。そして、誰がより方を教えてくれたのかも思い出せない。実に朦朧とした思い出である。
が、その時、紙縒が縒れるようになったことは間違いない。たまに和綴じに使ったこともある。
しかし、私が社会人になった頃には、紙縒にまさる閉じ紐やホッチキスなど、進化した道具が出回って、紙縒を使用することは皆無に等しくなった。
姪の到着を待つ間に、大昔のことを思い出していた。
姪の到着を待つ間に、大昔のことを思い出していた。
来年の春のお彼岸のころ、私自身が此岸にいるのか彼岸にいるのか、皆目分からない。此岸にいたとしても、お参りすると、同行者に、今よりさらに気づかいさせるようになることは間違いない。
これを最後と、お参りする。
山里で、ホウシゼミの声を聞けなかったのは残念であった。
道中のあちらこちらで見かける曼珠沙華にも、赤く燃える威力が欠如している。
きっと長く続いた猛暑と関係があるのだろう。私の好きな初秋の趣とは、かなり異なっているのが残念だった。