ぶらぶら人生

心の呟き

岡山からの贈り物

2016-06-20 | 身辺雑記
 マスカットとピオーネの二房が、岡山の友達から届いた。
 至宝のように、大事に包装されて。(下の写真は、ラップだけを残して撮影。)

       

 友達とは、季節の果物を送り合うだけで、久しく会っていない。
 お礼の電話をすると、
 「今年のうちに会いたいね。もう先がないような…」
 と、同年の友達は言う。

 私同様、<まずは、今日一日>の思いで、生きているようだ。
 歯茎の神経が痛くて、食事に支障があるという。
 私にも、歯痛や口内炎の経験は幾度となくあるので、その苦痛はよく分かる。
 が、それが恒常ということになると、想像するだけで、気分が滅入りそうだ。
 
 噛んで味わう楽しみがなくなったら、さぞ味気ないだろう。
 
 友達の愛嬢は、子どものときから病弱で、若く他界。
 会うたびに、跡継ぎをどうするかで悩んでいた。
 彼女の目にかなう人を養子に迎えたい様子だった。
 が、今日の話では、万事思い通りにはゆかず、すでに<墓じまい>をしたとのことであった。

 友達と私とは考え方がかなり違っている。
 昔ながらのしきたりを守って生きるタイプの友達には、無念さがあったであろう。
 私は、それでいいのだ、と思う。
 友達も手を尽くした挙句のせいであろう、今日は結構さばさばと、その現実を受け入れているようで、安心した。
 
 
 岡山県の和気町に、彼女は住んでいる。
 一度、自宅に泊めてもらったことがある。
 大きな屋敷だった。
 家の周囲にも、広い敷地があって、野菜を育てたりしていた。
 (大方は、旦那の仕事だったようけれど。)

 和気町は、<和気清麻呂>の生地という。
 <清麻呂の里 藤公園>には、立派な藤棚があり、その種類も多く、棚から地上に長い花房を垂らしていた。
 和気の藤公園に勝る藤を、私は見たことがない。
 公園には、朝倉文夫作の「和気清麻呂像」もあった。
 (東京の谷中にある『朝倉彫塑館』には、二度訪れたことがあり、親しみを覚えた。)

 その折、備前市の閑谷学校も見学した。

 早速、爽やかで美味な葡萄をいただきながら、和気を訪れた遠い日を思い出した。
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斎藤茂太さんの本を読んで…

2016-06-19 | 身辺雑記
 先日、朝日新聞の広告欄を見ていて、読んでみようと思ったのが、斎藤茂太(精神科医・医学博士)著『老いへの「ケジメ」』だった。
 ついでに、同じ著者の『「捨てる」「片づける」で人生が楽になる』も加え、アマゾンへ注文した。
 翌日には、入手できた。

 斎藤茂太(1916~2006・90歳没)の本を読むの初めてである。
 精神科医であり、歌人としても有名な、ご尊父・斎藤茂吉(1882~1953・70歳没)については、その<歌集>や<柿本人磨>論を読んでいる。
 また、弟の北杜夫(本名・斎藤宗吉)(1927~2011)(小説家<芥川賞受賞作家>・エッセイスト・精神科医)の小説も、幾編かを読んできた。

 が、斎藤茂太とのご縁は、初めてである。

 (書店の書棚には、<老いの生き方>を説く本が、やたらに多い。
 高齢者が多くなったせいだろう。
 90歳以上の人生を格好よく生きた方たちの、体験談や人生の処し方が多い。
 幾冊かは読んだが、最近は、その書棚の前に立ち止まることはほとんどない。
 結局、私の老いは、私自身の問題であると考えるようになったからである。)

 斎藤茂太氏の本を読んでみる気になったのは、作者が精神科医であることと無関係ではなかった。
 結果的には、楽しい読書となった。
 肯いたり、くすっと笑ったりしながら、たちまち読了。

 人生の終着駅に向かう晩年の生き方を、作者は「店じまい」という表現で語っておられた。

 「店じまい」とは、<日常を構成するひとつひとつに、自分なりの「ケジメ」をつけてゆくこと。身辺のあれこれを、少しずつ整理してゆくこと。>だとおっしゃっている。

 <「ケジメ」の時期は自分で決める>という小題のなかには、山頭火の句が引用されていた。

   ここまでを来し水飲んで去る

 <自分で決めた折り返し点を過ぎるときには、こんな感じがいいような気がしている。>と。

 上記の本を読みつつ、私は、少しのんびり生き過ぎた、と感じた。
 人生の折り返し点は、もう少し若い時に設定すべきであった、と。
 しかし、これはやり直しのできないことである。
 
 少々慌て気味に、今は、「捨てる」ことに努めている。
 あまりに多くのものを溜めすぎたので、捨てても捨てても、不要なものに囲まれている気がする。
 ものが少なくなれば、私の苦手な「片づけ」にも、苦労することはなくなるだろう。
 不要物のない世界に身を置きたいが、それは多分夢に終わるだろう。

 <捨てるという行為>は、思いのほか、大変なことである。
 
 <モノを捨てるには、あんがい強力なパワーが必要になってくる。もちろんモノを縛ったり運んだりしなければならないのだから体力も必要なのだが、それとともに「心の力」もいるのだ。

 と、著者も、書いていらっしゃる。
 全くその通りだと思う。

 少々努力しても、、完全な「店じまい」はできないだろう。
 でも、読書の効用か、実に潔く、ものを捨てられようになった。
 <もったいない>というこだわりから、解放されたかのように。

 「得る」人生から「捨てる」人生へ。
 ターニングポイントは遅れてしまったが、「捨てる」ことで体調を崩したりしないように、楽しみながら…と考えている。


 <あの世はいいところに違いない。
  その証拠に死んだ人は誰も帰ってこない。
  私は特定の宗教を持っていないから、こんな感じであの世を考えている。

 とも、作者は記しておられた。

 作者の考えに似て、私も<死>を、青空の彼方に飛んでゆくような気分として、考えている。
  
 「店じまい」の日は、必ずやってくる。
 その日が、いつかは分からない。
 何にもわからないから、今日が安穏に生きていられるのだろう。

 結局は、「ケ‐セラ‐セラ」の人生?

              
               ヘメロカリスの実(花は確実に実を結ぶ)
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郵便局へ

2016-06-17 | 身辺雑記
 5月12日、シルバー人材センターの方に、庭の除草作業をしていただいた。
 その代金の請求書が、昨日届いた。
 今日、郵便局へ行き、振り込みをすませた。

 梅雨の中休みで、午後の空は晴れていた。

      
                  飛行機雲を浮かべて

      
                 ほうき草とポーチュラカ

 郵便局前に、同じ鉢が17個、置いてあった。
 今は鮮やかな緑色をしている、小さな<ほうき草>だが、時間をかけて形も色も変化するに違いない。
 その周囲に植えられた<ポーチュラカ>は、色とりどりの花を咲かせることだろう。

  
             ケイトウ                        向日葵

 ケイトウや向日葵の苗も、郵便局の横に、数多く植えられていた。
 いずれも、夏の花である。
 みな、勢いがいい。
 真夏に向かって、ぐんぐん伸びてゆきそうな気配であった。


 私の庭の向日葵はといえば、少々おぼつかない。
 支柱に支えられて、今のところ、少しずつ成長はしているけれど。(15日に撮影したもの)

  
        向日葵 A (83センチ)               向日葵 B 68センチ)


 ※ 往復2660歩を歩いて、かなり疲れた。
   <疲れ過ぎ>である。
   運動不足が、原因だろう。

   昨日は、イチロー選手のすごい記録に感動した。
   努力の人でもあるのだ。
   天才的な実力は、努力に裏打ちされている。
   日常茶飯となった、他人には真似のできないほどの、毎日・毎時の努力が背景にあるという。

   何もせずに、老化の促進を防ぐことなどできないのだと、改めて思う。
   怠け癖を改善するのは、容易ではない。
   しかし、意識していれば、多少は体を動かすことになるのだろうか!?   
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津和野 花菖蒲など

2016-06-17 | 身辺雑記
 山口からの帰り、津和野に立ち寄り、殿町通りの掘割に咲く花菖蒲を見てきた。(11日)
      (時折、小雨の落ちる曇り日であった。)  
 
 津和野は、20代の後半、4年間を過ごした町である。
 殿町通りは、朝夕の通勤路であった。

 掘割の側に佇むと、様々な思い出がよみがえる。

   

      

      

      

      

      

      

      

      

 鯉も気ままに泳ぎ、掘割に、<静と動>の美しさを眺めることができた。

 鯉を見つつ、ふと思い出した人がある。
 「東京都美術館」のレストランで、たまたま遇った松山の女性である。
 私同様、よく旅をする人のようで、話題が津和野の話になった。
 
 「津和野の鯉、ちょっと肥りすぎですよね」
 と、やや不満げだった言葉と、声の表情を思い出したのだ。
 メールアドレスを交換し、数度は近況を伝えあったが、今は全く疎遠になっている。
 (奇妙な話だが、彼女の顔は思い出せない。あれから、10年は過ぎたのだろうか?)
 
 確かに、掘割の鯉には肥りすぎもいる。
 が、体形も、色も、さまざま。
 それが、おもしろい。 
 
 
        同日、津和野で目にした沙羅樹(夏椿)の花と紫陽花。
      

      

      
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南天とギボウシの花

2016-06-17 | 小庭の四季
              

       
                     南天の花(6月15日)

    
           ギボウシ (A)              ギボウシ (B)<斑入りの葉>


         
                   ギボウシ(A)の花
               うつむいて咲く花を下から覗き見て。
             下の花序から、上に向かって順々に開花する。

        (種類は多いらしい。わが家のギボウシは、やたらに茎を伸ばし、見栄えは今一つ。)      
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鉄砲百合、咲きそろう

2016-06-16 | 小庭の四季
                    13日 小庭に咲いた花
                      鉄砲百合、咲きそろう
                         (上下二段に)
       

       
                         (上段の花)
      
       
                         (下段の花)       
       
  
                            二つの紫陽花

  
                サツキ                     ランタナ



 昨日アマゾンへ注文した5冊の本のうち、早くも今日、4冊が届いた。
 ホセ・ムヒカに関する本3冊(5月8日の朝日新聞で紹介された本)と斎藤茂太の本1冊。
 (断捨離に努めている今、本を求めるのも控えよう、と考えていたのだが…。)

 今年4月に来日し、話題ともなったホセ・ムヒカ(前ウルグアイ大統領)について書かれた本。
    『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』 (編:くさばよしみ・絵:中川学 汐文社刊)
    『世界でいちばん貧しい大統領からきみへ』 (編:くさばよしみ・絵:田口実千代 汐文社刊)
 3冊のうち、上の2冊を読了した。
 言葉を味わい、絵を楽しみながら。

 付箋をつけた文章が多い。
 そ中から、一つ。

    多様性が世界を豊かにし、命を尊重することにつながるんだ。
    景色を見てごらん。
    花も草木もいろいろあるから美しい。
    バラエティのないのっぺらぼうな世界など、ぞっとする。  

             (『世界でいちばん貧しい大統領からきみへ』より)
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花々との出合い

2016-06-15 | 身辺雑記
            T医院へ定期の検診に出かけたのは、9日。
            その日、盆栽の花々との出合いを楽しんだ。
            <育てる>ことは、容易ではあるまい。
            愛情と時間をかけて、育てられた盆栽。
         花が、そこに存在する背景を想像するのも、また楽しいことである。 

      
                20年の歳月をかけて育てられた一樹
                   微妙に異なるピンク色
                その諧調の妙に感心する。(下 3枚)

          

          

          


                
                     受付に置かれていた寄せ植え
                      繊細でやさしい風情


          
                     イワガラミ(岩絡み)
                   紫陽花に似ていると思ったら
             <アジサイ科イワガラミ属の落葉つる性木本>とのこと

          

          
                    イワガラミの花(上 2枚)

          
                 イワガラミの横に置かれていた寄せ植え


          
                     診察室の2つの鉢

               
                     「魅惑のラン」という名を持つ花


                 
                        キョウカノコ
                   (帰ろうとしたとき 盆栽の作家に遇う
                     持参された新たな鉢2つ)

  
      キョウカノコ(花の部分)

 
                窓辺に置かれた二個の鉢(下の写真)
                  <異なる作家の盆栽>
               こちらも丹精込めて育てられた美しい花
          

             

           ※ PCを開かない日が続いて……。
             一度のさぼりが、二日、三日、四日…と連続して、今日に至った。
                <さぼる>というのは、なかなか気楽だ。                        
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鉄砲百合さわやかに

2016-06-09 | 小庭の四季
 花は、どうしてこう美しく咲くのだろう!

 花の美に、目を注ぐ暇もなく、働いた日々もあった。
 
 今は それぞれに異なる花の美しさを眺め、生きることの、一つの楽しみにしている。
 日々の小さな変化に、心を躍らせながら…。

 日ごと花数の増えているのは、鉄砲百合、ヘメロカリス、ビオウヤナギ。

     

         

         

  
   サツキの花が一つ咲いた。(左)
   冬の寒さで枯れたノボタンの根元に、葉がのぞいるのを発見。(右)
   とても嬉しい。
   しかし、無事成長してくれるかどうか?
   木が育ち、花を咲かせるまでにかかる時間を考えると、………。

  
   南天の花が、二つ三つ開いた。(左)
   白山吹の実は、日々、色を深めている。(右)
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6月の庭 (梅雨空のもと)

2016-06-08 | 草花舎の四季
                   色鮮やかに咲く花々
                           ―― 草花舎の庭 ――

     

        

        
        

        

        

        

                        

        

                       コーヒーとケーキ
        


                            室内の花々
          

  

        

        


                      付録  
        上の花を添付しながら、近所のエミリちゃん(小2)を思い出した。
        「愛らしさ」という共通点からか?

        今日、草花舎からの帰り、少々傾斜のある道を、<ヨイショ、ヨイショ>と
        歩いていると、後ろから追っかけてきた少女は、向かいのエミリちゃんだった。
        「お帰り!」
        と言い、少女と老女は、並んで歩く。

        「今日はね、国語と算数と、図工の勉強したの」
        「そう、楽しかったのね」
         エミリちゃんは、うなずき、
        「あのね、二か月、一度も学校休まなかったの」
        と、得意そうであった。
        (無欠席の子どもたちは、今日、先生からほめられたのだろうか。)
        小2の、あどけない可愛さ。

        そういえば、北海道の、おしおきを受けて行方不明になった少年も、
        小2だった。
        あの年頃には、悪戯が過ぎることもあるのだろうな。
        昨日、無事退院する姿をテレビで見ながら、不安に耐え抜いた苦痛の色など、
        微塵もなかった。
        その無邪気さに救われる思いだった。              
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贅沢な時間(「かじか荘」)

2016-06-07 | 旅日記
 日常の中から、ちょっと抜け出したくなることが、よくある。
 先日、草花舎で、「かじか荘」周辺では、しきりに河鹿が鳴いていると聞いた。
 遠くまで出かけなくても、河鹿の声は聴けるのだ。
 早速、出かけてみよう、と思った。
 家を離れる口実ができたことを、内心喜んだ。
 (誰に気兼ねすることもない、自由な生活をしているのに…。)

 PCで、大谷温泉について調べ、昨夕から今朝まで、  「かじか荘」 のお世話になった。
 短い旅だったが、実に贅沢な時間を過ごすことができた。

 
 昨夕のひととき、散歩に出た。
 そのとき、河鹿の声は、まだ少なかった。
 が、日暮れが近づくにつれ、その声は高くなった。
 一体、幾匹(幾百、幾千)の河鹿が、「かじか荘」近くの清流に棲んでいるのだろう?
 雌を誘う雄の大合唱は、美しいけれど、なんとも哀切である。
 (今朝6時、浴室に下りたときにも、まだ鳴き続けていた。)

 その声を音で表記するのは、大変難しい。
 歳時記には、<(雄は)「ヒョロヒョロ、ヒヒヒヒ……」と、涼しげな鳴き声を出す>と記してあった。
 ちょっと似てはいるけれど、もっと類似の擬音語はないものか?
 その鳴き声の、音の高低やスピード感まで表記するのは、容易ではない。

 YouTubeで、短時間の声を聞いてみる。
 確かに河鹿の声には違いないけれど、やはりもの足りない。
 自然の中に佇んで、せせらぎの音と共に聞く河鹿の声は、もっと素晴らしい気がするのだ。
 (ブログを書いている今も、私の耳には、昨夜の本溢川のせせらぎと河鹿の大合唱が聴こえてくる。)
 

 河鹿へのこだわりは、半世紀前、県境の町で過ごした3年間と関わりがある。
 初夏を迎えると、その声に親しみながら、生活した思い出がある。

 仕事を終えて、毎夕、町の銭湯へ行く。
 その往復の道すがら、夏の夕べ、いつも耳にしたのが、河鹿の声であった。
 本溢川に比べれば、比較にならないほど水量豊かな吉賀川であったが、やはり清流という共通点があったのだろう。
 希望して住んだわけではない山間の町で、河鹿の声は心の慰めの一つだった。

 その後、数度、旅先で河鹿の声を聴く機会はあった。
 が、この度は、ごく近くに、その声を聞ける秘湯宿のあることを知り、楽しみにして出かけたのであった。

 大谷温泉に行くのは、実は二度目である。
 ずいぶん昔、まだ元気だった父母と一緒に訪れたことがある。

 しかし、それは、河鹿の季節ではなかった。
 非常に記憶があいまいだが、晩秋の気配が漂っていたように思う。
 (部屋に、炬燵があったような気がする。)
 昭和58年の水害より、幾年か前のことである。
 
 女将さんの話によると、その折、「かじか荘」とその周辺にも、大きな被害があったという。
 小さな川の両岸が、今は、がっちりと石垣で守られている。
 昔は、田舎のどこにでもある小川だったような気がする。(すべては、曖昧な記憶であるけれど…)


             今回の小さな旅を、写真と一緒に、ブログに留めておこう。
               
     
                    現在の大谷温泉「かじか荘」

          
                   「かじか荘」近くを流れる本溢川

          
                     「かじか荘」裏のモミジ
           (鮮やかな色彩に惹かれた。秋はどんな色に変わるのだろう?)


                 以下は、夕方の散歩で撮影したもの。
  

  

      
                                  (このホタルブクロは廊下の活け花)


                     私の宿泊した部屋(8畳の和室)
  

  

  
       部屋から見えたホタルブクロ              鯉の池
               (鯉の泳ぐ池は、温泉に浸りながら、目の前に眺めることができた。)     

                     新鮮な食材の生かされたご馳走
          
                               夕食膳

  
                               朝食膳 

          
                稀勢の里 来館(平成19年)の写真 ご主人と
                    (稀勢の里もご主人も若い。)

              
             受付のカウンターに立つと、斜め上に見えるた河鹿の写真
                  (お客さんが撮影されたもの。
              河鹿は、居場所ごとに色を変えるという。<隠蔽色、保護色>)

               
                         コップの中の蛍
             (女将さんが、蛍を見につれていって下さった。
             「かじか荘」の近くにも、一つ二つは飛んでいた。
           が、下流にはもっとたくさん飛ぶ場所があると、車の乗せてくださったのだ。
                   
              闇の中に、湧き出るように灯が点る。
              あちらの闇から、こちらの闇に…。
              遠く、近く、群がりつつ、灯りが点り、また消えてゆく。
              それぞれの点滅に、時間差をつくりながら…。
              暗闇の中に、<音のない静寂な音楽>が、奏でられているかのように。

              コップの中の蛍は、その時、草むらで捕えたものである。
              帰途、私の手の中で、淡い灯を点し続けていた。
              蛍をコップに入れてくださったのは、ご主人である。
              その姿をカメラに収めた後、河鹿の鳴く川に向かって
              放してやった。……)

       河鹿と蛍、さらに「かじか荘」の方たちの、心やさしいもてなしに感謝する旅であった。 
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