ぶらぶら人生

心の呟き

『別れの手続き』

2016-01-20 | 身辺雑記
 今年に入って、山田稔著『別れの手続き』 (みすず書店・2011年5月10日刊)を読了した。

          

 アマゾンへ注文し、この本を入手したのは、昨年末のことであった。
 『別れの手続き』購入のきっかけは、朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)を読んだことにある。

    <人は思い出されているかぎり、死なない。思い出すとは、呼びもどすこと。>

 (この一文については、10日のブログで、すでに紹介している。)

 確かに、何かにつけ思い出す故人は、心の中で、今なお生きている人々である。
 呼びもどしては、語らいを続ける限り、いまなお心に生き続けている人といえる。

 入手してみると、鷲田清一氏紹介の一文が、本の帯に印刷されていた。 
 全文を読む前に、再び、あの名句に出合ったのである。

 この本のどこに、上記の一文があるのか、文中で出合えるのを楽しみに読み始めた。   
 『別れの手続き』は、<山田稔散文選>として、13編の作品がおさめられている。
 標題の「別れの手続き」も、その一編である。
 
  作者は1930年生まれで、私より少し年長である。
 が、ほぼ同世代なので、描かれている時代相や文中に登場する作家などが、非常に身近に感じられた。
 その名前を知っているだけで、思いがけず、知人に出会ったような親しみを覚えるのだった。

 私の本の読み方は、味読、熟読のタイプである。
 さらに、調べることも好きなので、登場者の生没年などをタブレットで確かめるなど、寄り道をしながら読み終えた。

   (余分な話だが、生・没の月日が同じ人もいた。
   多田道太郎<1924・12・2~2007・12・2>である。
   珍しいことだ。
   没年や享年に関心を持つのは、私の老いと関係があるのかもしれない。)
 
 各編に、短編小説のような面白さを感じた。
 13編ともいい作品だが、好みから3編を選ぶなら、「志津」「母の遺したもの」「別れの手続き」である。

 文章の味わい深さは、格別である。
 美文調ではないが、真の美文である。
 本を閉じて、読後も余韻を楽しめる本は、そう沢山はない。

  (もっと詳しく書きたいけれど、このあたりで筆を擱く。
  最近、とみに筆力の衰えを感じる。
  思いをうまく綴れないのだ。
  今は特に、山田稔さんの、秀逸な筆力の印象が脳裏にあり、自分の書く文がますます
  お粗末に思え、いっそう筆が鈍ってしまう。)

 書き忘れていたが、本の帯に記されていた一文(鷲田清一さんの紹介された文)は、見つからなかった。
 読み落としたのだろうか?

 もしかすると、編集者がまとめられたものでは?
 そんな気もする。
 13編の作品のなかに漂うものが、この一文には、うまく集約されているようにも思えるのだ。

          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

                  余録 ①
    今日の朝日新聞<オピニオン>欄は、 ⦅時流に抗う》と題された辺見庸さんのインタビュー記事であった。

    『自動起床装置』(小説・芥川賞受賞作)以来、辺見庸さんの読者である。
    その文体は、どちらかといえば、硬質であり論理的であり、知的である。
    辺見庸さんは、決してぶれない思想の持ち主である。

    首肯しつつ読んだ、多々ある考察の中から、一か所を引用しておきたい。

    <ぼくは、未来を考えるときは過去に事例を探すんです。むしろ過去のほうに未来があって、
     未来に過去がある。そういうひっくり返った発想をしてしまう。いまの局面をなぞらえる
     としたら、すべてが翼賛化していった1930年代じゃないですか?>
    


                余録 ②
                今日から大寒
                私にとっては、82歳、最後の日。
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