今年に入って、山田稔著『別れの手続き』 (みすず書店・2011年5月10日刊)を読了した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/7f/44e70abc5244074bd36c11b3a6b39602.jpg)
アマゾンへ注文し、この本を入手したのは、昨年末のことであった。
『別れの手続き』購入のきっかけは、朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)を読んだことにある。
<人は思い出されているかぎり、死なない。思い出すとは、呼びもどすこと。>
(この一文については、10日のブログで、すでに紹介している。)
確かに、何かにつけ思い出す故人は、心の中で、今なお生きている人々である。
呼びもどしては、語らいを続ける限り、いまなお心に生き続けている人といえる。
入手してみると、鷲田清一氏紹介の一文が、本の帯に印刷されていた。
全文を読む前に、再び、あの名句に出合ったのである。
この本のどこに、上記の一文があるのか、文中で出合えるのを楽しみに読み始めた。
『別れの手続き』は、<山田稔散文選>として、13編の作品がおさめられている。
標題の「別れの手続き」も、その一編である。
作者は1930年生まれで、私より少し年長である。
が、ほぼ同世代なので、描かれている時代相や文中に登場する作家などが、非常に身近に感じられた。
その名前を知っているだけで、思いがけず、知人に出会ったような親しみを覚えるのだった。
私の本の読み方は、味読、熟読のタイプである。
さらに、調べることも好きなので、登場者の生没年などをタブレットで確かめるなど、寄り道をしながら読み終えた。
(余分な話だが、生・没の月日が同じ人もいた。
多田道太郎<1924・12・2~2007・12・2>である。
珍しいことだ。
没年や享年に関心を持つのは、私の老いと関係があるのかもしれない。)
各編に、短編小説のような面白さを感じた。
13編ともいい作品だが、好みから3編を選ぶなら、「志津」「母の遺したもの」「別れの手続き」である。
文章の味わい深さは、格別である。
美文調ではないが、真の美文である。
本を閉じて、読後も余韻を楽しめる本は、そう沢山はない。
(もっと詳しく書きたいけれど、このあたりで筆を擱く。
最近、とみに筆力の衰えを感じる。
思いをうまく綴れないのだ。
今は特に、山田稔さんの、秀逸な筆力の印象が脳裏にあり、自分の書く文がますます
お粗末に思え、いっそう筆が鈍ってしまう。)
書き忘れていたが、本の帯に記されていた一文(鷲田清一さんの紹介された文)は、見つからなかった。
読み落としたのだろうか?
もしかすると、編集者がまとめられたものでは?
そんな気もする。
13編の作品のなかに漂うものが、この一文には、うまく集約されているようにも思えるのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
余録 ①
今日の朝日新聞の<オピニオン>欄は、 ⦅時流に抗う》と題された辺見庸さんのインタビュー記事であった。
『自動起床装置』(小説・芥川賞受賞作)以来、辺見庸さんの読者である。
その文体は、どちらかといえば、硬質であり論理的であり、知的である。
辺見庸さんは、決してぶれない思想の持ち主である。
首肯しつつ読んだ、多々ある考察の中から、一か所を引用しておきたい。
<ぼくは、未来を考えるときは過去に事例を探すんです。むしろ過去のほうに未来があって、
未来に過去がある。そういうひっくり返った発想をしてしまう。いまの局面をなぞらえる
としたら、すべてが翼賛化していった1930年代じゃないですか?>
余録 ②
今日から大寒。
私にとっては、82歳、最後の日。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/7f/44e70abc5244074bd36c11b3a6b39602.jpg)
アマゾンへ注文し、この本を入手したのは、昨年末のことであった。
『別れの手続き』購入のきっかけは、朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)を読んだことにある。
<人は思い出されているかぎり、死なない。思い出すとは、呼びもどすこと。>
(この一文については、10日のブログで、すでに紹介している。)
確かに、何かにつけ思い出す故人は、心の中で、今なお生きている人々である。
呼びもどしては、語らいを続ける限り、いまなお心に生き続けている人といえる。
入手してみると、鷲田清一氏紹介の一文が、本の帯に印刷されていた。
全文を読む前に、再び、あの名句に出合ったのである。
この本のどこに、上記の一文があるのか、文中で出合えるのを楽しみに読み始めた。
『別れの手続き』は、<山田稔散文選>として、13編の作品がおさめられている。
標題の「別れの手続き」も、その一編である。
作者は1930年生まれで、私より少し年長である。
が、ほぼ同世代なので、描かれている時代相や文中に登場する作家などが、非常に身近に感じられた。
その名前を知っているだけで、思いがけず、知人に出会ったような親しみを覚えるのだった。
私の本の読み方は、味読、熟読のタイプである。
さらに、調べることも好きなので、登場者の生没年などをタブレットで確かめるなど、寄り道をしながら読み終えた。
(余分な話だが、生・没の月日が同じ人もいた。
多田道太郎<1924・12・2~2007・12・2>である。
珍しいことだ。
没年や享年に関心を持つのは、私の老いと関係があるのかもしれない。)
各編に、短編小説のような面白さを感じた。
13編ともいい作品だが、好みから3編を選ぶなら、「志津」「母の遺したもの」「別れの手続き」である。
文章の味わい深さは、格別である。
美文調ではないが、真の美文である。
本を閉じて、読後も余韻を楽しめる本は、そう沢山はない。
(もっと詳しく書きたいけれど、このあたりで筆を擱く。
最近、とみに筆力の衰えを感じる。
思いをうまく綴れないのだ。
今は特に、山田稔さんの、秀逸な筆力の印象が脳裏にあり、自分の書く文がますます
お粗末に思え、いっそう筆が鈍ってしまう。)
書き忘れていたが、本の帯に記されていた一文(鷲田清一さんの紹介された文)は、見つからなかった。
読み落としたのだろうか?
もしかすると、編集者がまとめられたものでは?
そんな気もする。
13編の作品のなかに漂うものが、この一文には、うまく集約されているようにも思えるのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
余録 ①
今日の朝日新聞の<オピニオン>欄は、 ⦅時流に抗う》と題された辺見庸さんのインタビュー記事であった。
『自動起床装置』(小説・芥川賞受賞作)以来、辺見庸さんの読者である。
その文体は、どちらかといえば、硬質であり論理的であり、知的である。
辺見庸さんは、決してぶれない思想の持ち主である。
首肯しつつ読んだ、多々ある考察の中から、一か所を引用しておきたい。
<ぼくは、未来を考えるときは過去に事例を探すんです。むしろ過去のほうに未来があって、
未来に過去がある。そういうひっくり返った発想をしてしまう。いまの局面をなぞらえる
としたら、すべてが翼賛化していった1930年代じゃないですか?>
余録 ②
今日から大寒。
私にとっては、82歳、最後の日。
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