ぶらぶら人生

心の呟き

7月の庭 (木槿 紫の花) 

2007-07-17 | 草花舎の四季
 草花舎の裏庭に、二本の木槿の木がある。
 その一本は、薄紫色をしている。(写真)
 格別珍しい花ではないが、季節の花として楽しめる。夏がそこに存在するという実感を、見る者に与えてくれる花である。

 「木槿」と言えば、芭蕉の有名な句を思い出す。
   道のべの木槿は馬に喰はれけり

 難解な句ではない。そこで、字面どおりに読み流してきた。たまたま歳時記を読んでいたら、この句には二通りの解釈があるという。
 『野ざらし紀行』中では、前書きに「馬上吟」とあり、<出る杭は打たれるというふうに、教訓の句という解釈を生み、人口に膾炙した。>とあり、
 『泊船集』では、前書きに「眼前」とあることから、<瞬時の出来事をあるがままにとらえ、無作為のうちにおかしみと果敢(はか)なさの交錯する微妙な境地を言い止めた句>と、解釈するのだ、という。
 分かるようで、心には届きにくい解説である。
 正岡子規は、この句に関して、<「曰く付き」で世に喧伝されているだけだ>と評しているとか。

 上記の説を引用しながら、なぜそのような厄介な受け取り方をするのだろうかと疑問を抱いた。そこで、古典の本を開いて、少し勉強した。その結果分かったことは、江戸時代における文学作品の解釈の仕方が、概して寓意説をとる傾向にあったということである。
 <文学作品を、文学そのものとしてでなく、倫理的(儒教的)または宗教的(仏教的)な意義を付会して理解しようとする傾向が一般的にすこぶる強いのであって、そういう傾向が俳諧作品の解釈上にも強い影響を与えており、俳諧解釈または俳諧理解の一つの型を形成していることを指摘しないわけにはゆかない。解釈上のみならず制作上にもこの影響は及んでおり、江戸時代の和歌や俳諧で、教訓ないし諷戒の意を含んだ作品は非常にたくさん残っている。著名な作家、優れた作家でもこの種の作品を作っているのであって、芭蕉も例外ではない。>(井本農一編『芭蕉』より)

 これを読んで、奇妙な(?)解釈の生れた背景をいくらか理解することができた。


 歳時記に載っている、木槿の句の中では、中村汀女の、次の作が心に沁みた。
   月明のふとさびしさよ木槿垣 
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