半円の小さな花壇には、一本のシモツケの小木が植わっている。
春日和の庭に出て、今日も日課のように木々の萌しを観察する。そして、抜きやすい雑草を、その折々の気分で片手におさまる程度、引っこ抜く。草取りなどという大袈裟な作業はしようにもできない。
シモツケの木陰に生えた雑草を抜いてみると、なかなか繊細な草である。
苔の一種かしら? と思いつつ、一部をキッチンに持ち込んで、小皿に載せてみた。
お皿の底にわずかな水を敷いて、眺めている。
細い茎の赤紫色と頭頂の若緑が程よく調和している。
これも、いのち!
大きめの花壇に、昨年末に植えた花キャベツの2本が、先日来、それぞれに花を開き始めている。
私の植え方がまずかったのだろう。茎が伸びるに従って安定感を失い、傾いてしまった。
赤紫色の方は、完全に地面に倒れたので、今日、根っこから抜き取り、頭頂部を切り取って花瓶に挿した。
次回は、土を深く掘り、根が張りやすいように植えようと思った。
が、老女には、次回があるか否か、その確実性のパーセントが下がる一方であるけれど。
それでも、生きている今は、大方ののことに、<次回>を考えてしまう。
花壇の大きさに似合うように、小ぶりの株を植えたことも、倒れやすい要因となったのだろう。
幸田文さんの『季節のかたみ』を読んでいたら、「きざす」と題したエッセイの書き出しに、
<三月は、ものの始まろうとする月、動き出そうとする月、つまり気鋭の月ともいえるだろうか。>と記され、さらに文末は、
<三月は芽が現れ出る月、気鋭の月である。>と、締め括られている。
日毎、桜の開花ニュースが報じられている。
でも、例年とは様子が変わっている。世界で蔓延中の、未だ正体不明の病原菌のために。
本来、この季節は、自然の木々の目覚めと同時に、人間も冬の寒さから解放され、心浮き立つ季節であるはずだ。
が、この春のなんと心浮かぬ春であることか。
老若男女を問わず、新型コロナウイルスにより、ひとりでに行動を規制すされている感はあるけれど、特に高齢の私など、いよいよ外出する気になれないでいる。
借りている施設の部屋は、完全な個室ではあるけれど、廊下は共有の場であり、集団生活の一面を持つ。やはり家の方が安全だろうと考え、2月24日に帰宅して以来、買い物や病院、墓参などの他は、目に見えないウイルスを恐れ、蟄居生活である。
一日も早く、鬱陶しいマスクを外し、老女でも、街や自然の中を自由に闊歩できる日が来ることを念ずるばかり。