※ 新日曜美術館(NHK) <横浜 トリエンナーレ 2008年>
を、テレビで見た。
現代アートはとかく分かりにくいと思うことが多い。しかし、今日の作品については、その発想の面白さ、ユニークな感性に、感心させられるものが多かった。
今回は、「横浜トリエンナーレ」の第3回展に当たるのだそうだ。
この催しについては、今まで知らなかった。前回、前々回の展示作品がどんなものであったかも、当然知らない。
テレビの紹介で知る限り、この展覧会は世界規模で、見所満載の感じだ。会場に行けば、心を揺さぶられる作品に、多く出会えそうである。
今回のテーマは、「TIME CREVASSE (タイム クレヴァス)」だという。
このテーマに基づいて、世界各地のアーティストの作品が集合しているのだから、見ものである。写真、絵画、彫刻、影像、インスタレーションなどなど、作品の数々が各種の会場で見られるようだ。
かつて旅で訪れた三渓園も会場の一つになっていた。
お庭の自然景を取り込んだ霧の風景は、神秘的で印象深かった。(中谷芙二子の作品)
その他、会場を訪れてみたくなる作品が多い。作品量が多いうえに、作品の規模が大きい。作品の数々を見て廻るには、幾日かを費やさねばならないだろう。
今回、会場を訪れることはできそうにない。
新日曜美術館で観た感動に留めることにしよう。
今日の放映を通して、現代アートは難解だという潜入観が打ち砕かれ、むしろ心に響く作品が結構多く、親しみを覚えることができたのは幸いだった。
※ 探し物=小さな旅
家の中で、しばしば物が姿を消す。誰か意地悪をする人がいるわけではない。魔物が潜んでいるのでもない。それなのに、物がよく行方不明になる。
一度や二度のことではないので、もう驚きもしない。原因は、私の置き忘れである。
声を上げてくれない物を探して、日に幾度か右往左往する。人が見ていたら、さぞ滑稽であろう。
大抵のものは出てきてくれるが、もう一年も前から姿を消し続けている眼鏡は、永久に決別を告げられたようなものだ。
今日は昼過ぎ、急に思い立って、近くのスーパーへ買い物に出かけてくることにした。往復1キロあるかどうかの近さなので、家着のままでいいのだが、長袖のT シャツは、襟元が少々あきすぎている。老いた細い首を隠すためと、さりげなくおしゃれを決め込むために、マフラーをして出かけようと思った。
今日のシャツに見合う色のマフラーを取り出して準備した。
ところが、その後、他用をあれこれしているうちに、そのマフラーが行方不明になったのである。
大邸宅ならいざ知らず、小さな家に住んでいて、物が見えなくなるのは不思議である。いつものように、自分のとった行動を思い出して、行ったり来たりして探す。が、なかなか探し物は見つからない。
諦めて、マフラーなんかしなくてもいいと、裏口から出ようとしたところ、冷蔵庫の横に置いている台の上に、探し物は無言で、澄まし顔をして載っているのであった。
そこに置いたのは、考えて見るのと合理的である。そこに気づかないのが、頭の鈍りなのであろう。
マフラーをゆるやかに巻いて、意気揚々と(?)、買い物に出かけることができたのだった。
物探しは、家の中の小さな旅だと思うようにしている。
動きの少ない私の生活に、神様の授けてくださった小さな旅。
そんな風にでも考えなくては、自らが哀れになりすぎる。
私の探し物の主たるものは、よく持ち歩く携帯電話、子機、眼鏡、電子辞書、さらには前日読んだ本などである。
衣類は、着たい季節には現れず、翌年にひょっこり出てきたりする。
要は、整理能力の不足と物忘れのひどさに起因する出来事である……。
※ 帰途に、またスーザンさんに会った。
買い物からの帰り、一昨日とほぼ同じところで……。
バスで益田に出て、駅前から車で匹見へ神楽を見に行くのだ、と。
草花舎のT ちゃんや高津の神楽関係者も一緒らしかった。
匹見で、秋祭りの催しでもあるのだろうか。
細かいことを伝え合うのは困難だが、単語をつなげれば、簡単な意思疎通を図ることはできる。
私は、ショッピングからの帰りだと伝え、明日、草花舎でお会いしましょうと言った。
スーザンさんは人差し指を立てて、<一時に>と、時間を確認された。
※ 公民館の入り口に、紅白の芙蓉が咲いていた。まだ蕾が多い。一日花が、しばらくは次々と咲いては閉じてゆくのだろう。(写真 白い芙蓉の花)
を、テレビで見た。
現代アートはとかく分かりにくいと思うことが多い。しかし、今日の作品については、その発想の面白さ、ユニークな感性に、感心させられるものが多かった。
今回は、「横浜トリエンナーレ」の第3回展に当たるのだそうだ。
この催しについては、今まで知らなかった。前回、前々回の展示作品がどんなものであったかも、当然知らない。
テレビの紹介で知る限り、この展覧会は世界規模で、見所満載の感じだ。会場に行けば、心を揺さぶられる作品に、多く出会えそうである。
今回のテーマは、「TIME CREVASSE (タイム クレヴァス)」だという。
このテーマに基づいて、世界各地のアーティストの作品が集合しているのだから、見ものである。写真、絵画、彫刻、影像、インスタレーションなどなど、作品の数々が各種の会場で見られるようだ。
かつて旅で訪れた三渓園も会場の一つになっていた。
お庭の自然景を取り込んだ霧の風景は、神秘的で印象深かった。(中谷芙二子の作品)
その他、会場を訪れてみたくなる作品が多い。作品量が多いうえに、作品の規模が大きい。作品の数々を見て廻るには、幾日かを費やさねばならないだろう。
今回、会場を訪れることはできそうにない。
新日曜美術館で観た感動に留めることにしよう。
今日の放映を通して、現代アートは難解だという潜入観が打ち砕かれ、むしろ心に響く作品が結構多く、親しみを覚えることができたのは幸いだった。
※ 探し物=小さな旅
家の中で、しばしば物が姿を消す。誰か意地悪をする人がいるわけではない。魔物が潜んでいるのでもない。それなのに、物がよく行方不明になる。
一度や二度のことではないので、もう驚きもしない。原因は、私の置き忘れである。
声を上げてくれない物を探して、日に幾度か右往左往する。人が見ていたら、さぞ滑稽であろう。
大抵のものは出てきてくれるが、もう一年も前から姿を消し続けている眼鏡は、永久に決別を告げられたようなものだ。
今日は昼過ぎ、急に思い立って、近くのスーパーへ買い物に出かけてくることにした。往復1キロあるかどうかの近さなので、家着のままでいいのだが、長袖のT シャツは、襟元が少々あきすぎている。老いた細い首を隠すためと、さりげなくおしゃれを決め込むために、マフラーをして出かけようと思った。
今日のシャツに見合う色のマフラーを取り出して準備した。
ところが、その後、他用をあれこれしているうちに、そのマフラーが行方不明になったのである。
大邸宅ならいざ知らず、小さな家に住んでいて、物が見えなくなるのは不思議である。いつものように、自分のとった行動を思い出して、行ったり来たりして探す。が、なかなか探し物は見つからない。
諦めて、マフラーなんかしなくてもいいと、裏口から出ようとしたところ、冷蔵庫の横に置いている台の上に、探し物は無言で、澄まし顔をして載っているのであった。
そこに置いたのは、考えて見るのと合理的である。そこに気づかないのが、頭の鈍りなのであろう。
マフラーをゆるやかに巻いて、意気揚々と(?)、買い物に出かけることができたのだった。
物探しは、家の中の小さな旅だと思うようにしている。
動きの少ない私の生活に、神様の授けてくださった小さな旅。
そんな風にでも考えなくては、自らが哀れになりすぎる。
私の探し物の主たるものは、よく持ち歩く携帯電話、子機、眼鏡、電子辞書、さらには前日読んだ本などである。
衣類は、着たい季節には現れず、翌年にひょっこり出てきたりする。
要は、整理能力の不足と物忘れのひどさに起因する出来事である……。
※ 帰途に、またスーザンさんに会った。
買い物からの帰り、一昨日とほぼ同じところで……。
バスで益田に出て、駅前から車で匹見へ神楽を見に行くのだ、と。
草花舎のT ちゃんや高津の神楽関係者も一緒らしかった。
匹見で、秋祭りの催しでもあるのだろうか。
細かいことを伝え合うのは困難だが、単語をつなげれば、簡単な意思疎通を図ることはできる。
私は、ショッピングからの帰りだと伝え、明日、草花舎でお会いしましょうと言った。
スーザンさんは人差し指を立てて、<一時に>と、時間を確認された。
※ 公民館の入り口に、紅白の芙蓉が咲いていた。まだ蕾が多い。一日花が、しばらくは次々と咲いては閉じてゆくのだろう。(写真 白い芙蓉の花)