ぶらぶら人生

心の呟き

10月5日  (芙蓉の花)

2008-10-05 | 身辺雑記
 ※ 新日曜美術館(NHK)  <横浜 トリエンナーレ 2008年>
 を、テレビで見た。
 現代アートはとかく分かりにくいと思うことが多い。しかし、今日の作品については、その発想の面白さ、ユニークな感性に、感心させられるものが多かった。
 今回は、「横浜トリエンナーレ」の第3回展に当たるのだそうだ。
 この催しについては、今まで知らなかった。前回、前々回の展示作品がどんなものであったかも、当然知らない。
 テレビの紹介で知る限り、この展覧会は世界規模で、見所満載の感じだ。会場に行けば、心を揺さぶられる作品に、多く出会えそうである。
 今回のテーマは、「TIME CREVASSE (タイム クレヴァス)」だという。
 このテーマに基づいて、世界各地のアーティストの作品が集合しているのだから、見ものである。写真、絵画、彫刻、影像、インスタレーションなどなど、作品の数々が各種の会場で見られるようだ。
 かつて旅で訪れた三渓園も会場の一つになっていた。
 お庭の自然景を取り込んだ霧の風景は、神秘的で印象深かった。(中谷芙二子の作品)
 その他、会場を訪れてみたくなる作品が多い。作品量が多いうえに、作品の規模が大きい。作品の数々を見て廻るには、幾日かを費やさねばならないだろう。
 今回、会場を訪れることはできそうにない。
 新日曜美術館で観た感動に留めることにしよう。
 今日の放映を通して、現代アートは難解だという潜入観が打ち砕かれ、むしろ心に響く作品が結構多く、親しみを覚えることができたのは幸いだった。


 ※ 探し物=小さな旅
 家の中で、しばしば物が姿を消す。誰か意地悪をする人がいるわけではない。魔物が潜んでいるのでもない。それなのに、物がよく行方不明になる。
 一度や二度のことではないので、もう驚きもしない。原因は、私の置き忘れである。
 声を上げてくれない物を探して、日に幾度か右往左往する。人が見ていたら、さぞ滑稽であろう。
 大抵のものは出てきてくれるが、もう一年も前から姿を消し続けている眼鏡は、永久に決別を告げられたようなものだ。

 今日は昼過ぎ、急に思い立って、近くのスーパーへ買い物に出かけてくることにした。往復1キロあるかどうかの近さなので、家着のままでいいのだが、長袖のT シャツは、襟元が少々あきすぎている。老いた細い首を隠すためと、さりげなくおしゃれを決め込むために、マフラーをして出かけようと思った。
 今日のシャツに見合う色のマフラーを取り出して準備した。
 ところが、その後、他用をあれこれしているうちに、そのマフラーが行方不明になったのである。
 大邸宅ならいざ知らず、小さな家に住んでいて、物が見えなくなるのは不思議である。いつものように、自分のとった行動を思い出して、行ったり来たりして探す。が、なかなか探し物は見つからない。
 諦めて、マフラーなんかしなくてもいいと、裏口から出ようとしたところ、冷蔵庫の横に置いている台の上に、探し物は無言で、澄まし顔をして載っているのであった。
 そこに置いたのは、考えて見るのと合理的である。そこに気づかないのが、頭の鈍りなのであろう。
 マフラーをゆるやかに巻いて、意気揚々と(?)、買い物に出かけることができたのだった。

 物探しは、家の中の小さな旅だと思うようにしている。
 動きの少ない私の生活に、神様の授けてくださった小さな旅。
 そんな風にでも考えなくては、自らが哀れになりすぎる。
 私の探し物の主たるものは、よく持ち歩く携帯電話、子機、眼鏡、電子辞書、さらには前日読んだ本などである。
 衣類は、着たい季節には現れず、翌年にひょっこり出てきたりする。
 要は、整理能力の不足と物忘れのひどさに起因する出来事である……。


 ※ 帰途に、またスーザンさんに会った。
 買い物からの帰り、一昨日とほぼ同じところで……。
 バスで益田に出て、駅前から車で匹見へ神楽を見に行くのだ、と。
 草花舎のT ちゃんや高津の神楽関係者も一緒らしかった。
 匹見で、秋祭りの催しでもあるのだろうか。
 細かいことを伝え合うのは困難だが、単語をつなげれば、簡単な意思疎通を図ることはできる。
 私は、ショッピングからの帰りだと伝え、明日、草花舎でお会いしましょうと言った。
 スーザンさんは人差し指を立てて、<一時に>と、時間を確認された。

 ※ 公民館の入り口に、紅白の芙蓉が咲いていた。まだ蕾が多い。一日花が、しばらくは次々と咲いては閉じてゆくのだろう。(写真 白い芙蓉の花)
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秋の匂い  (金木犀)

2008-10-05 | 身辺雑記

 今晩は星のまたたく夜だろうか、イエライシャンの花は、香り始めていないだろうかと、昨夜、夜ふけの庭に出てみた。星は、目を凝らすと、次第にその数を増してきた。が、冴え渡った夜とは言いがたく、おそらく薄い雲が空全体を覆い気味だったのであろう。
 花壇の前にしゃがんでみた。が、イエライシャンはまだ芳香を放ってはいなかった。開花には間があるらしい。

 ところが、狭い庭を行きつ戻りつしていると、どこからともなく、花の香が漂ってきた。
 すぐ金木犀の匂いだと分かった。
 もう金木犀の咲く時期? と、木の傍によってみた。夜目にも朱色の花の咲いているのが分かった。
 しかし、花は地味で目立たない。昨夜のように匂い始めて、初めて存在に気づかされることが多い。

 庭から部屋に戻ると、友人から電話があった。
 金木犀が香り始めたことを、早速伝えた。
 「秋ですね」
 と、言い添えて。

 今朝、朝日新聞の<天声人語>で、機を同じくして金木犀が取り上げられているのを読んだ。
 <駅までの道すがら、キンモクセイの甘い香りがどこからともなく漂ってきた。わが鼻には今年の「初もの」である。……あの芳香は季節の記憶をよびさます。残暑は去って、空は高く、秋が定まったのを実感する。>
 という書き出しで、香の代表、キンモクセイと、見た目の代表格、菊について書かれたコラムであった。

 私が、友人に「秋ですね」と語った裏には、コラム氏の言う<秋の定まった感じ>を意味していた。

 今朝の庭に下りて、金木犀の香を確かめ、<詩人の薄田泣菫が「ぢぢむさく、古めかしい」と哀れんだ>という地味な花を眺めた。(写真)
 なお泣菫は、その香については、<「高い香気をくゆらせるための質素な香炉」と見立てている>そうだ。(注 < >内は、天声人語より)

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