脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

デリダと日本人

2024-09-09 | Weblog
左翼が強い時代は日本で一般論を語る時「日本人なら」と言う言葉を問題視する人がいた。例えば日本人ならコメを食べるとか、日本人ならこうだとかいう民族をひとくくりにした発言は日本には在日外国人もいるのだから適切ではない。本当に難癖と言うかそういう些細なことを問題視していた人間がいたことは確かである。よく日本人の曖昧さを指摘する人がいるが、私はそれがある意味日本人の長所だと思っている。たぶんこういう考え方も政治的なもくろみは別として、わるい意味での曖昧さをあらわしているのだが、私などは外国人の参政権が政治の議会で上がることは驚きであるが、いいか悪いかは別にして日本人は曖昧、よく言えば多様性を認めようとする民族であると思う。
日本は平和である。よく人は平和ボケとか言うけれども、しかし平和であると言うのは確かに環境のおかげもあるのだろうが、もともと日本人が持つ性格も相まってそういう環境を生み出すのだろう。おそらくそういったことは日本人の持つ宗教観、すべてに神々のの存在を認めてそれらを大事にする神道の影響が大きいと思う。少し前うちのベテランの職人さんがダンベルをつけてパンチングの前でシャドウしていて、その流れでパンチングバッグをたたいていたので、「傷がつくからダンベルをつけてたたいたらだめですよ」と言おうとしたら、パンチングバッグをたたく時、きちんとそれをはずしてたたいていたのだが、その時思った「あっこの人職人さんだ。職人さんが道具を粗末にはしない」と、確かにうちのクラブには職人さんが在籍しているが本当に道具を大事にする。グローブなんかは毎回ピカピカに磨いていて、道具はジムにおきっぱなしにしないで毎回持ってかえって手入れしている。私が競技したところはそこまで道具を大事にすると言う感じではなかったので、彼らを見て深く感心させられたが、やはりこれらはすべてのものには神が宿ると言う神道の宗教観と無関係ではない、彼ら彼女らは自然や物に対してい系の念を持つ、そのような考えかたができるから平和で多様性を理解できるのだろうと思う。これに対して西洋哲学はどちらかと言うと白か黒かをはっきりとつけたがる習性がある。特に一神教の影響が強いのだろうが、彼らの思考回路は二項対立だ、善か悪かそれが正しいかそうでないかの世界である。脱構造主義のデリダは、二項対立で物事を理解するのではなく、価値判断の保留に重きを置いた。すなわち物事は考え方次第でそれはよいものにもわるいものにもなるのだから、余白をのこして物事をとらえる。それがデリダの言うところの変化であり、そういう考え方を理解できるセンスを日本人は持っていると思う。私は学生に本をすすめられてある程度理解力が深まったら、デリダと読んだらいいとすすめるが、日本人は別の見方で哲学を理解するセンスを持っている、だからもっと哲学を学ぶことをすすめたい。

参考文献
「脱構築と正義」高橋 哲哉 講談社学術文庫
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