脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

착한 사마리아인 되기  Be the good samarian!

2019-04-26 | Weblog
私が学生のころ宗教学の研究発表があった。自分たちが決められた国の宗教や民族、そしてそこにどういう土着の宗教が根強くのこっているかということを調べて発表するのだが、私に与えられた課題は「アフガニスタン」であった。このアフガニスタンは今も民族の争いがたえず内戦などがおこる国であるが、この国を調べている時、私はあることが気になった。それは「The average life span(平均寿命)」という欄であるが、見て見るとアフガンの人たちは確か、50歳以下が平均寿命で、日本人の約半分しか生きられないと言うのである。これは衝撃的であった。原因として内戦などがあげられるが、しかしもっと深刻な原因は生まれて来て栄養失調ですぐになくなってしまう子供たちの存在で、そういう子供たちが平均寿命をさげているのだが、私はこの現実を見て、生きたくても生きることができない命があると深く思わされたのだが、そういう国はアフガンだけではなく数多くある。今世界が近くなった今、我々の取り巻く環境がかわり、スポーツももっとまわりのことを考えて行動しなければならない時代だ。そのため我々は人権や人間の権利、そしてそれだけではなくジェンダーあるいはバイオエシックスや環境問題などいろいろな立場から物事を見ていかなくてはならないと思っている。スポーツは思想であり、哲学的であると理解している。オリンピズムの精神はお互いの国のことを知りそして理解しリスペクトすることだ。だからスポーツ責任者はその世の中に現実に向き合い考え、行動しなくてはならない。もし何も考えず、刺激だけでスポーツをとらえるだけでは、スポーツの存在価値は、ローマ時代のパンとサーカスのサーカスにすぎず、そこからはスパルタカスは生まれても、プラトンやアリストテレスは生まれないだろう。

うちのクラブはわずかではあるが、ボランティアのひとつとしていくつかの団体に不定期ではあるが、ドネイションしている。そしてそのドネイションをする対象は一番弱いと思われる存在、そういう人たちに役に立ってもらいたいと毎月うちのクラブの名前でドネイションをさせてもらっているが、でもこの行為は本質的には自分の信念と言った立派なものではない、私の同情心ひょっとしたらそれは偽善的なものであるかもしれない。

the good samarianと言う物語がある。これは強盗にあって半殺しにされて道端に置き去りにされた男をまわりがかかわりたくないという中、一人の混血の男、しかも他民族で差別の対象であった人間がその男を救うという物語である。そしてその男が助けた理由としてあわれに思ったからと記されている。この哀れに思ったは原書ではσπλαγχνίζομαι(スプランクニゾマイ)と言って、それは内臓を表す言葉である。わかりやすく言うと日本語でも断腸の思いでと言う言葉があるが、男はそのたおれて傷ついている人間を見て、いたたまれなくなって、あるいはその姿を見て自分の心が傷ついたのかも知れないが、彼は心が動かされて同情して相手を助けたのである。コナンで自分を殺そうとした人間がビルの非常用階段からおちるところを助けようとした時、その男になぜ助けるのかと聞かれて「人を助けるのに理由はない」と言ったが、人を助けたり、支えたりするということはその人の信念の問題でもなければ善悪の問題でもない。この物語にあるように内臓が動かされたから、感情がいたたまれなくなった気持ちがそうさせたのである。マザーテレサが献身的に病気の人を癒そうとする理由を「私はその倒れている人の中にキリストを見るからだ」と言っていたが、人間が人を支えたり、助けようとすることができるのは、人に同情できるから、さらに自分が弱いと言うことを知っているからだろう。私自身も偉そうなことは言ってはいるが、しかしそういう気持ちにさせられるのは、自分が波乱万丈な生き方をしてきて、ひょっとしたら自分もそうなっていたかもしれないと言う同情や自分の弱さからである。

格闘技をやっている人間は強いということを誇張したがるがあほかと思う。ちょっとしたことができたぐらいで自分の運命を切り開いてきたみたいに言うような人間もいるが、しかし人間は自分ではどうすることもできない運命に翻弄される弱い生き物だ。だからこそ支えあって生きなくてはいけないのだ。若いうちはいろいろなことに逆らって生きるということもひとつの選択だと思う。でも広い世界に出て行っていろいろなことを経験して、感情性を養えばたくさんのことが見えてくる。私などは世界では幸せなことよりも不幸せとまわりから見て思うようなことのほうが多いのではないかと思っているのだが、スポーツをする人間はもっとまわりのことをよく知るために言葉をおぼえたり、勉強したりすることは必要なことだ。そしてそこで本当に自分の弱さを知って少しでも何かできたら自分は救われると言うのが私の考え方で、そういう弱い人間が集まるからこそその群れが豊かになるという逆説的な考え方もまた私の考え方だ。


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