それしかできない奴やDQNが中心の集団はだめだ。誰かが武勇伝を語ると口々に語る。勉強ができないのでけんかやスポーツ自慢やんちゃしてきたことが青春時代だったような人間たちが中心になって集まっている。ジムと言うのはその指導者の質によって決まる。質と言うのは言葉の質のことだ。そこの責任者がまともな日本語の対応力や言葉がしっかりしていればまわりの人間はそれにあわせるようになる、。言葉がくずれて乱暴な言葉になったりしないもので、武勇伝や乱暴な言葉そいつらの雰囲気がアウトローくさくなるのはその責任者に日本語の対応能力がないからだ。うちのクラブは40代以上のしっかりした人が多くそういう人たちが定着しているのはまさにそういうことに気をつかってきたからだと思っている。英語やほかの語学ができても肝心の日本語がおろそかでは意味がない。うちのクラブには高学歴の人も結構いるので、実はそういう対応力を磨いてきたことは確かである。私はよく言葉と言うが言葉と言うのはその集団を形成するためには一番重要な要素で、言葉の質がわるければまわりにそういう人間が集まってくる。まさにそれは責任者とそのまわりをとりまく人間を見たらそのクラブの質がわかると言ってもいいだろう。うちのクラブには子供を私学の学校に通わせている人が結構いて、だいぶ前に私の話に興味をおぼえて自分の子供も英語に興味を持たせるために子供を誘ったことがあった。ボクシングの責任者なんてたぶん一般的にやんちゃであまり勉強できませんと言うイメージがあったのだと思う。ジャージ姿の私に最初は少し警戒していたと言うか見下していたようにさえ感じた。ただこういう進学校などに通う勉強ができる子は時には相手を見下す傾向がある。がしかしそれはそういう輩を見下すことで勉強などの力にかえていくエネルギーで、私は過渡期においてはそういうことはある程度必要なことだと思っている。これは私の意見であるがこういう時期にバカな大人やアウトローくさい大人をこいつらはバカだと見限ることも必要なことだ、大人になってそういう態度をとることは決していいことではないのだろうが、しかし過渡期には大いにそういう感情をぶつけていってこういうバカにはなってはいけないという免疫をつけることも大事だ。子供でも大人をよく見ている。そういう子供たちに見限られたくなければそれなりに大人の言葉をつかうことである。シビアな意見であるがアウトローくさい奴や未熟な奴は情でつるむ、しかし理知的な集団はそういう集まり方はしない、きちんとした協力の下、平等に秩序を守ってトレーニングしている。集団において理性をはたらかせるということは大事なことだ、理性をはたらかせないとそれは乱暴なマスやスパーリングにつながる。理性をはたらかせるという意味でも、そこでどうあるいはどういう言葉が語られるかは大事なことだ。ちゃんとこの人勉強してるなと言う人がつかう言葉はある程度洗練されているのでまわりが乱れたりすることはない。少々脱線することはあってもすぐに修正される。そして何よりも責任者が理知的であることはまわりの信用も大きいと思う。でその連れてきた子供は最初は警戒していたが話すうちにすっかりとうちとけ、トレーニングしたいと言い出した。でも勉強があるし時期も時期だから見送ったほうがいいと言うことを言ったのだが、私が問いたいことはクラブの監督やジムの責任者たちが子供に勉強しろと自信を持って言えるかと言うことだ。東京オリンピックも開催され英語力が求められるこの時代にスポーツバカでは通用しない、人を威嚇するような恰好やマンガの決めゼリフのような滑稽なことを言って目立つのではなく、きちんとした考え方と意見を持った上で自己主張できる人間を育てていくことは大きな課題だ。うちのクラブではボクシングができるからと言って特別扱いしたり、まわりからすごいと思われるようなアドバンテージはない。たとえ何かで優勝しても目立つことばかり考えたり、未熟であればここでは教えることはできないだろう。ここは基本的に平等であるが強いて言えば英語が話せるとか社会貢献の高い人間のほうがまわりから一目置かれるだろう。