脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

セヘ ポン マニ パドウセヨ  

2012-12-29 | Weblog
「セヘポンマニパドウセヨ」は新年のあいさつ、日本語では「新年の福をたくさん受けてください」この言葉は新年だけではなく、日本語でいうところのよいお年をと言う意味でも使われる。
最近朝鮮民族系の人間とかかわることが多くなって、朝鮮語が身近になってきたのだが、我々の暮れのあいさつはこの「セヘポンマニパドウセヨ」だ。
実は少し前からある韓国系の人間が日本で仕事をしていて、職場には欧米人もいて英語が必要だからということで、最近彼とは英語で会話している。おそらくネイティヴは少しきついので私でならしておこうと思っているのだろう、しかし彼と話しているとなんとなく違和感を感じるのだが、昨日も夜中12時頃をまわった頃二人で英語で会話をしていた。

私は昔韓国の水原というところの語学学校に臨時の講師を引き受けたことがある。そこは友達の勤めていた語学学校で、ある期間日本語の講師が足りないので手伝ってくれないかということで行ったのだが、さっそく10人ぐらいの上級者クラスで教えることになった。
韓国語と日本語はよく似ている。助詞もあるし、文法も同じだ。しかし時々助詞の使い方が日本語では「電車にのる」が「電車をのる」となり、そういうこまかい助詞の使い方の違いや、過去や未来の使い方や受け取り方のちがいなどの、そういうミステイクを聞いて正しくするのが私の役割であった。
ある時否定形の説明をした時に韓国語の否定形のように文頭にいきなり否定形を持ってくるかたちは日本語にはない、だから日本人はあいまいなのだというようなことを言われたことがある。
しかしいやいやそうではない。実は大阪の言葉にはあるんだそれはチャウという言葉で、この言葉はそのものは独立しているのだが、しかしそのチャウと言う言葉の後には文章が続くので、これは韓国語のアンと同じだと言ったことがある。
そしてここからあの「チャウチャウチャウ」という例文を出して、その説明をしたのだが、これが思いっきりうけた、中には爆笑している奴もいたが、私があまりにもうまく彼ら彼女らの心をつかんだので、その私を呼んだ友人はかなり喜んでいたようだ。

韓国人は失敗を気にしないで、言葉をつかってくる。
儒教の国でも何かを学ぶと言うことに関してはとてもアグレッシヴで、日本語でも英語でも積極的に言葉を使ってくる。
中には「銀行でお金をおろしてきた」を「銀行でお金をとってきた」ととんでもない間違いをするが、そんなことはおかまいなしだ。
時々間違っても堂々と話してくるので「えっそんな表現って文法的にありなんだ」と思わされてしまうが、しかしある英語圏の人間も言っていたが、失敗を気にしないから語学習得も日本人に比べてはやいそうである。

私は結構いろいろな民族と付き合いがあるが、日本人は慎重すぎる。
そういう時日本人が使う言葉でよくわからない言葉がある。それは「失敗をおそれるな」と言う言葉で、こういう語学習得の時にそれはよく言われる。しかし失敗をおそれるとは一体どういうことなのか?
私にしてみたらたかだか語学の練習ごときで何が失敗なのか??こんな言葉はおおげさだと思うし、ここまで言うと語学の練習で表現を間違えたり、文法を間違えることがそんなにわるいことなのかとさえ思ってしまう。

韓国語にケンチャナヨという言葉がある。
この言葉は日本語にはないことばだ。
もし訳すとするならば「大丈夫」と「いいじゃないか」を合わせたような言葉であると思っているが、これは彼ら彼女らがよく使う言葉で、それは彼ら彼女らの文化を象徴するかのような言葉であると思っている。
だいぶ前にシクタン(食堂)でウエイトレスに水をこぼされたことがある。
日本ではそういうことはないが韓国ではよくあることで、そういう時決まって相手はケンチャナヨと言う。
しかしこのケンチャナヨは大丈夫ですか?と言うような感じではなく、少々押し付け気味で、コーヒーじゃなく、水をこぼしたぐらいだからかまわないじゃないかと言うような感じのケンチャナヨで、日本の習慣に慣れてしまうとかなり戸惑いをおぼえてしまう。
日本人ならばこういう時すみませんというのが普通であるが、しかし韓国人(最近の若い人はわからないが)は、チェーソンハムニダとは普通言わない、こういうことはお互いが気にしない、ゆるしましょうということが前提にあるので、ケンチャナヨと言う言葉が出てくるのだが、そういう受け入れるというか、小さいことはどうでもいいじゃないかという考え方が彼ら彼女らの中にはあるのだと思う。
(だだこれは彼ら彼女らの独特のウリ(私たち)という考えがあって成立する言葉で、たとえもし日本人が韓国人に水をこぼした場合はそうでないこともありうると思う。)

失敗を恐れるなと言うのは、その失敗を受け入れたり、失敗してもいいという環境があるかということだ。
たかだかボクシングごときで命をかけるかのごとく、練習するのはばからしいことだ、武勇伝を語ってっ競技者を鼓舞したり、日本のクラブは競技で失敗するとおこられるらしいが、こういうことはかえって選手を委縮させるだけ、私がよく封建主義的な軍団を批判するのはこういうピリピリした独特の雰囲気があるからだ。
自分が聞いててアホかと思うのは、自信を持てとか、自分を信じろとかやたら自分を強くみせるようにふるまおうとする態度である。
どういう根拠でそういうことを言っているのかえわからないが、たかだかボクシングをやったぐらいで、人間が強くなって、そういう自信や誇りなどがもてるものなのか?
ボクシングをやったからと言って特別な存在になれるなんていうこと自体間違った考えである。私はメンタルテラピーとしてのスポーツを考えているが、いろいろと研究していくうちに、こういう考え方が、心を本当に豊かにしていくことの弊害だと思っている。
チャンピオンとか何とか何位とかそんなものが自信になるのか?
むしろそういうことだけしか自慢できない奴は社会に出てもコンプレックスを持つだけである。弱いくせに無理をしてとよく見せようとすることに何の意味があるのだろうか?
正直なぜ精神が強くなると言うことをこの世界の人間は言うのかわからないが、もし言うのだったら心を豊かにするということで、その心を豊かにしていくためには、単にこのスポーツを競争としてとらえるのではなく、楽しむことができるスポーツとしてとらえることも大事なことではないだろうか。


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