脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

スゴハショッソ お疲れ

2012-12-05 | Weblog
最近仕事の疲れからか、言葉が少しおかしくなってきている。
私の唯一の強さはプレッシャーやストレスを感じないところだが、しかし最近仕事が忙しく疲れが出ているのか、言語的に少しおかしくなってきているのは確かである。
私は昼間は日本語そして夜は英語をつかって仕事をしている。
日本語と英語は文法はまったく違うのでその文法上違う言葉を毎日毎日使い続けていると、文法的におかしくなってくる。おそらく夜は英語を使わなくてはいけないので、そういう切り替えかえの必要からか、夕方あたりに文法がおかしくなってくるのだが、おそらく仕事の疲れからかその切り替えができなくなってきているのだと思う。
その話を友人にすると彼はあるものをくれた、それは「ハンプリ」という韓国の滋養強壮ドリンク、朝鮮ニンジンをすったような濃厚なエキスが入っていて、見た目よりも飲みやすく、私の体質がむこうの人間の体質に近いのかどうかわからないが、日本で売っているユンケルのような滋養強壮ドリンクよりもかなり利くような気がする。
わざわざ「ハンプリ」という名前の滋養強壮ドリンクを日本人に私に渡すのも皮肉なものであるが、単純だが実際に元気になったような気がするのだが、この滋養強壮ドリンクは娘のソヒョンにも飲ませていて、これで受験などを乗り切るとか言っていた。

ストレスと言うのは誰でも感じているものだ、このクラブでもストレスをうったえる人が多いが、最近入会してきた人も目的はストレス発散と言う人も少なくはなく、中にはプチウツだという人もいる。
日本語で精神的な病のことを精神病いや精神疾患という方が適切なのかはわからないが、精神疾患とは文字通り精神いわゆる心の病のことで、英語でも「Mental disease」でほぼ同意であるが、これらはストレスが原因で引き起こすものが多く、現在何らかのかたちで精神的疾患を患っている人は推定300万人以上いると報告されている。
精神疾患は今でこそ医学の一つとして確固たる地位を築いているが、しかしもともとは医学的なものとして位置づけられていなかったらしく、政治的な考えで、医学の一つとして位置づけられるようになったそうだ。
しかしそのことは非常に危険性をはらんでいる。なぜならそれは心を科学的にとらえられるようになったということで、心の問題を解明しないままで、薬投与など、他の病と同じような解決法を求めるからで、単純に体の機能が正常でないならば、心に障害がおこると言う考えは安易だからだ。

現に米国ではこの薬と診断の仕方が非常に問題になっている。
それはこの精神の問題が医学に統合されることによって、解決の仕方が、症状を聞いて「あっそれじゃあこの薬を出しておきます」というような診断のしかたになったと言うことだが、おそらく心の問題に精神医学をそのまま用いることには、かなりの無理があると思っている。
たぶん日本でもそうと思うが、一般的に精神が病んだと言うことをうったえて病院に行くと、その日にかならず何らかの病名を宣告される。
その病名はDMSという精神医学会の最も権威のある辞書のようなものを基準にして診断されるが、それらははっきり言って権威だけを示すもので、私はこれを病気のカタログと呼んでいるが、それに基づいて、その診断に見合った薬が投与されるのだが、その診断も1分ぐらいと言う短い時間で、しかも与えられた薬は実際機能していないことが多く、診断を受けても一向によくならない、むしろ薬を飲んだことでさらに落ち込んだという人たちもいるのだが、科学的に解明された病状が、科学的な処方ではならないという矛盾がここにあるのだ。
私は専門ではないので、荒い観察になるが、現にそういう病気になった人たちを見て来て、そういった機関の不十分さを感じる。
聞く話によると、そのほとんどは簡単な話ですまされて「はい、この薬を飲んでおきましょうね」ということで返されてしまうという話をよく聞くが、もっと他にやり方があるやろと思うこともよくある。
そのDMSという白い巨塔だ立ちはだかるのかはわからないが、症状を決めつけてあてはめて、それを薬にたよるというやり方が主流に見えて仕方がないのだが、心の問題と言うのはデリケートで、もう少しカウンセリングに時間をかける必要があるのではないかと思っている。

ただこの精神医学は最近になって医学として認められたせいもあるのか、体系がほぼフロイトの心理学であることもあってかわからないが、その症状に対して病気と言う言葉は使わない。
英語では「Disorder」「 Shychosis」と言う言葉が使われていて、それは昔で言うところの「うつ病」を「双極性障害」「精神分裂」を「統合失調症」と呼ぶことからもわかることであるが、それは一般の病気とは違い、個人的な見解ではあるが、よほどのケースを除いては、心が正常に機能すれば「Disorder」が「 Order」になると思っているが、そういうDisdrderを持った人たちに必要なのは、その心が正常に働くことができる場を見つけることである。

しかし世の中と言うのは安心できる場ではない。
ごねどくとか、ルールを守らない、自分勝手な奴の方が得をするというような話を聞くが、世の中ちょっとしたことだが、こういういやなことを聞いたり目撃したりすることはよくあることだと思う。
アマチュアボクシング協会の親玉にしても、遠征中に生徒たちをほったらかしにしてキャバクラに行くような奴らなんかもそうだが、健全であるスポーツでさえそうなのだから、会社にしろ、社会にしろ安心できる場ではない。そういうプチウツになったり、ストレスをかかえている人たちの多くは、まじめで正しく生きようとしている人たちで決して心がよわいからではない、むしろ真面目に一生懸命生きているのだから、そうなるのだと思っているのだが、このクラブはそういう人たちが安心してこれる場であったらいいと願っている。

スポーツにおけるカウンセリングはほめることだ、しかしほめると言ってもここに集う人たちも子供だけではないので、言葉を選んで、考えて、自分たちができるということに気付かせてあげる。そういうほめかたをスポーツを通して実践すれば、心の状態がよくなっていくのではないかと思うが、私はそういう素人でもできるようなカウンセリングの方法を実践している。
よくスポーツでほめてしかるというようなことを言う奴がいるが、しかしこういうやり方はカウンセリング的な目的では不十分、私にしてみたらただ封建的な奴の言っているそれは調教に等しい。
現にそういう奴に限って、ヒエラルキーをつくっておやじと子供、あるいは親分と子分のような関係を築いているが、根本的にはスポーツを通して心の状態をよくするためには、まず競技において100%受け入れることが大事なこと、100%受け入れることは日常ではありえないことだが、しかしこのスポーツと言う場であるからそれができると思っている。
私の考えでは必要とあれば、その競技において、否定することは一切言わないようにしている。
ただいいところだけを見て、そこを集中的にほめる。確かにできない部分もあってそこを指摘したら、技術的にも伸びる可能性があるのだが、しかしまずは100%受け入れること、そのことを人によっては徹底しているが、そのこともあってか、ここにきている人たちのストレス解消度が高くなってきていると言うことを実感している。

これはどの人間に対しても言えることだが、このストレスを感じることが多い現代、我々に必要なのは、カウンセリングができる場を見つけること、ボクシングクラブのようなスポーツクラブでもいい、とにかくそこに行けばストレスが発散で来て、人間らしいかかわりができるような場を見つけることが必要であり、そういう場としてこのクラブが機能することを願っている。



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