韓国にこういう話がある。
それはのどがからからの日本人と中国人そして韓国人の子供がひとつの部屋に入れられる。そしてそこにはスイカがおいてあって食べることができるのだが、しかし食べるのにひとつだけ条件があって、食べる前に自分は犬畜生ですと宣言して食べなければならないのだ。
それぞれそのことを聞いて食べるのをためらうが、しかし時間とともにのどがどんどんかわいてくる。
まず最初にスイカに手をつけたのは日本人の子供、いつまでもそんなことにこだわってはいられないとスイカを食べ始める。そして次にそれを見た中国人の子供がスイカを手にして食べ始める、しかし韓国人の子供はいくらのどが渇いていても自分のことを犬畜生だと言うことができず、見るに見かねた日本人の子供が食べたらどうだとスイカを差し伸べたときはもうそのスイカは皮の状態であったという話で、これは彼ら彼女らがいかにプライドが高く名誉を重んじるかという話である。
韓国人というのは非常にプライドが高く、意固地である。周りを見ても何でこんなくだらないことに意固地になるのだと思うことがしばしばあるのだが、私は意地をはりすぎてどえらい目にあった人間をみじかに見ているので、どちらかというとプライドをかけて生きるというような生き方にはいささか懐疑的である。
昔私が信用していた女性がいた。
この方は私よりも少し年上で、私が頭がいいと思った人の一人であるが、この人は日本人なのに韓国語がペラペラ、なぜかわたしはこの人のことをヌナと呼んでいたのだが、この方が人間の心の強さについてこういうことを言っていた。
どういうきっかけでそういう言葉が出てきたのかは忘れたが、しかしはっきり覚えている言葉があって、こういってた「本当に強い心を持つというのは、何かに向かって行ったり、強くなって得る優越感やプライドから生まれてくるものではない。それは水のように生きる心で、柔軟に物事をうけとめ、変えていく力である。水は雨や雪のようにあらゆるかたちになって流れていくが、しかし水であることには変わりはない、そういう心を持つことが今の時代を強く生きれる」と
正直ボクシングもそうだが格闘技をやっている人間は、しょうむないプライドを持ちすぎるように思える。
試合は殺しあいだとつぶしあいだのというような奴は、それが命をかけてやるものだと思っているのだが、こういうわけのわからないことに意地をはって生きようとしすぎだ。
おそらくコンプレックスのうらがえしでそんなことを言っているのだろうが、こんなものに命をかけてどうするのだ、たかだかボクシングだろう、それよりももっと大事なことがあるではないか。生きることは短くて長い、だからそんな一時的にしかできないことに命をかけるというようなことを言うのは無意味だ、だいたいそういうことを言う奴に限って、現実味がないので生活力がなく、人にたかるような生活をしているのではないか。
日本ではそういう気持ちを出してモティヴェーションをたかめるたっめだろうか、侍ジャパンのように侍とか武士とかそういう言葉をよく聞くが、そういう時代はとっくの昔であってそういう時代錯誤な価値観を今頃持ち出すのはナンセンスである。
だいたい武士や侍があそこまで自分のプライドを保ち続けることができたのは、彼らが特権階級にいたからということともう一つはその妻や周りの者が支え、彼らをたてていたからである。
こういう時代であるから少々しんどい思いをしても、俺は武士だと意地を張って生きることができたが、しかし周りが彼らをたて支えることができなければ、もろいものだ。
立てられなければもてないプライドなんてすてたらいい。スポ根漫画なんか見てみても、かならず一生懸命命をかける男には女の存在があって、それをかげで見守り支えているのだが、そういう単純極まりない構造がスポーツにロマンを求めるような人間の世界にはあると思っている。
昔私の友人が外国人の人たちと日本の文化を話した時に、侍の話が出て切腹の話が出たらしい。
なぜ日本人は腹切りをするのかということを聞かれたのだが、その時彼は得意がってその侍の精神について話したのだが、しかしその腹切りの概念については、いくら潔く責任を取ってと言っても、なぜ腹を切ることが責任をすべて受けることなんだと理解できない、ややさめた目で見ていたらしいが、日本人のそういう特定の考え方なんてその程度のもの、それをプライドをかけて守った日本人の意地だ誇りだなどと言っても外国では理解されないと思う。
日本人特に運動系の奴はくだらないことにこだわりすぎである。
意地だとかプライドとかそういうことがかっこいいかのように思っているが、よく考えてみれば周りの後輩と言われる自分をたてる者がいなければなりたたない世界で、昔の古い武家社会と同じである。
よくまわりを見渡して、もしそれがしょうむないプライドや意地だったら持たないほうがいい。
そんなプライドに振りまわされていては、いずれ自分がつぶされてしまう。
この時代に大事なのはまさに水のようにかたちを変えることができる柔軟な心である。
その柔軟に生きることとは私なりに考えてみたがこうだ。
型にはまらないこと、そのためたくさんの書物を読み外国語を学ぶこと、そして体育会にはつながらないこと。
次回は「ペッコプインサ」
それはのどがからからの日本人と中国人そして韓国人の子供がひとつの部屋に入れられる。そしてそこにはスイカがおいてあって食べることができるのだが、しかし食べるのにひとつだけ条件があって、食べる前に自分は犬畜生ですと宣言して食べなければならないのだ。
それぞれそのことを聞いて食べるのをためらうが、しかし時間とともにのどがどんどんかわいてくる。
まず最初にスイカに手をつけたのは日本人の子供、いつまでもそんなことにこだわってはいられないとスイカを食べ始める。そして次にそれを見た中国人の子供がスイカを手にして食べ始める、しかし韓国人の子供はいくらのどが渇いていても自分のことを犬畜生だと言うことができず、見るに見かねた日本人の子供が食べたらどうだとスイカを差し伸べたときはもうそのスイカは皮の状態であったという話で、これは彼ら彼女らがいかにプライドが高く名誉を重んじるかという話である。
韓国人というのは非常にプライドが高く、意固地である。周りを見ても何でこんなくだらないことに意固地になるのだと思うことがしばしばあるのだが、私は意地をはりすぎてどえらい目にあった人間をみじかに見ているので、どちらかというとプライドをかけて生きるというような生き方にはいささか懐疑的である。
昔私が信用していた女性がいた。
この方は私よりも少し年上で、私が頭がいいと思った人の一人であるが、この人は日本人なのに韓国語がペラペラ、なぜかわたしはこの人のことをヌナと呼んでいたのだが、この方が人間の心の強さについてこういうことを言っていた。
どういうきっかけでそういう言葉が出てきたのかは忘れたが、しかしはっきり覚えている言葉があって、こういってた「本当に強い心を持つというのは、何かに向かって行ったり、強くなって得る優越感やプライドから生まれてくるものではない。それは水のように生きる心で、柔軟に物事をうけとめ、変えていく力である。水は雨や雪のようにあらゆるかたちになって流れていくが、しかし水であることには変わりはない、そういう心を持つことが今の時代を強く生きれる」と
正直ボクシングもそうだが格闘技をやっている人間は、しょうむないプライドを持ちすぎるように思える。
試合は殺しあいだとつぶしあいだのというような奴は、それが命をかけてやるものだと思っているのだが、こういうわけのわからないことに意地をはって生きようとしすぎだ。
おそらくコンプレックスのうらがえしでそんなことを言っているのだろうが、こんなものに命をかけてどうするのだ、たかだかボクシングだろう、それよりももっと大事なことがあるではないか。生きることは短くて長い、だからそんな一時的にしかできないことに命をかけるというようなことを言うのは無意味だ、だいたいそういうことを言う奴に限って、現実味がないので生活力がなく、人にたかるような生活をしているのではないか。
日本ではそういう気持ちを出してモティヴェーションをたかめるたっめだろうか、侍ジャパンのように侍とか武士とかそういう言葉をよく聞くが、そういう時代はとっくの昔であってそういう時代錯誤な価値観を今頃持ち出すのはナンセンスである。
だいたい武士や侍があそこまで自分のプライドを保ち続けることができたのは、彼らが特権階級にいたからということともう一つはその妻や周りの者が支え、彼らをたてていたからである。
こういう時代であるから少々しんどい思いをしても、俺は武士だと意地を張って生きることができたが、しかし周りが彼らをたて支えることができなければ、もろいものだ。
立てられなければもてないプライドなんてすてたらいい。スポ根漫画なんか見てみても、かならず一生懸命命をかける男には女の存在があって、それをかげで見守り支えているのだが、そういう単純極まりない構造がスポーツにロマンを求めるような人間の世界にはあると思っている。
昔私の友人が外国人の人たちと日本の文化を話した時に、侍の話が出て切腹の話が出たらしい。
なぜ日本人は腹切りをするのかということを聞かれたのだが、その時彼は得意がってその侍の精神について話したのだが、しかしその腹切りの概念については、いくら潔く責任を取ってと言っても、なぜ腹を切ることが責任をすべて受けることなんだと理解できない、ややさめた目で見ていたらしいが、日本人のそういう特定の考え方なんてその程度のもの、それをプライドをかけて守った日本人の意地だ誇りだなどと言っても外国では理解されないと思う。
日本人特に運動系の奴はくだらないことにこだわりすぎである。
意地だとかプライドとかそういうことがかっこいいかのように思っているが、よく考えてみれば周りの後輩と言われる自分をたてる者がいなければなりたたない世界で、昔の古い武家社会と同じである。
よくまわりを見渡して、もしそれがしょうむないプライドや意地だったら持たないほうがいい。
そんなプライドに振りまわされていては、いずれ自分がつぶされてしまう。
この時代に大事なのはまさに水のようにかたちを変えることができる柔軟な心である。
その柔軟に生きることとは私なりに考えてみたがこうだ。
型にはまらないこと、そのためたくさんの書物を読み外国語を学ぶこと、そして体育会にはつながらないこと。
次回は「ペッコプインサ」