脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

HUSH!

2012-02-27 | Weblog
ここにはいないが時々ボクシング経験者で人に教えるときなど、滑稽なことを言う奴がいるが、こういう奴はHUSH!だ。
どういう奴かと言うと言っていることはわからんでもないのだが、国語的におかしかったり、学問的におかしいことを言う奴である。
最初私が驚いたのはパリングがパーリングになっていること。
ジムでパーリングやパーリングという言葉を聞いたが、最初何のことかわからなかった。
あげあしとりかもしれないが、もともとパリングは英語の「parry」よけるとかそらすと言う意味から来た言葉で、パリーの動名詞であるからパーとは発音しない、しかしにもかかわらずほとんどの人間がパーリングと言っていたののあるが、普通誰かが気づいておかしいと感じてもいいと思うのだが、こういうことひとつとってみても語学に疎いスポーツであることが理解できる。
またある時はオーケストラの集団でもないのに「シャドウで山場をつくれ」とか、パンチをこううったら自然にもどってくるなどというような物理学を超えたほぼ超能力に近い解釈は、何を目指しとるんだと理解に苦しむが、こういうことを言う奴に限って考えろとか感じろと言うのだが、ある意味矛盾している。

前にあるよそのクラブに行っていた人間がこういうことを言っていた。
彼は練習でこぶしをいためることがよくあるそうで、そこで教えている人間に「よくこぶしを痛めるけどなぜなのか?」聞いたそうだ。
彼が言うには、こぶしをしっかり握っていないからこぶしをいためてしまうそうで、もっとしっかり握ってうてともっともらしく言われたそうだが、しかしなぜか納得できなかったそうである。
しかし彼はまたここでこぶしを痛めたときに私に同じことを聞いてきた。
それでなんといったかと言うと「俺は医者じゃないからわからない」と言ったのだが、彼はもともとスマートなのでこの言葉ではたと気づいたらしい。
よく知らないくせに知ったようなことを言う奴がいる。
こぶしのケガや人体のことはまさに医学のことで、こういうことをあたかも自分の物差しでこうだと決めつけてしまうことに程度の低さを感じたらしいが、だいたいよく考えたら握れるグローブなんかあるのか?
最近は人間工学的に安全性を考えて握りのあまいつくりになっているので、しっかりと握れるはずはないと考えているのだが、おそらくこぶしを痛めないうちかたというのは握りではなく、ヒットポイントにあると私は見ているが、むしろ「俺は専門ではないのでわからない」と言われて安心したそうである。
考えるということは注意力と分析する力がなければできないこと、ケガや人体的な問題は英語のガイダンスを見たらある程度書いているが、しかし専門的なアドヴァイスとしてはとぼしい、こういうことからもわかるように答えれる質問と答えられない質問があるのだが、分析する力が養われていないと杓子定規に自分のフィールドだけで物事をとらえ、考えて、適当なことを言ったり滑稽なことを言ってしまうのである。

以前すべてではないが格闘技を競技する人間は負の力が強いというようなことを言ったが、格闘技にはそういう負の力をエネルギーにしていく要素がある。
ある種のコンプレックスを力に変えていって、上にのぼりつめていくのであるが、このルサンチマン的パワーが時には称賛されるのがボクシングである。
しかしそれは一昔前の話で、今こういう考え方はあまり通用しない、ここはそういうルサンチマンを持った人間が、レゾンデートルをもとめて来る場ではなし、、何かあるものを実現する場ではない、趣味としてボクシングをたしなんでいるわけで、ストレス発散程度である。

少し解釈を変えるが、韓国のことわざにこういうことわざがある。
「天才は努力するものには勝てない、しかし努力するものは楽しむ者には勝てない」
人間はそのルサンチマンをこえてニーチェがいう超人には決してなれないし、コンプレックスは決して乗り越えることはできない。
にげるな、いじをみせろとそんなとこで追い込まれて意地になって何がおもしろいのか?
おそらくそういうことを言う奴の求めるレゾンデートルなど意味がない、所詮自分がもっていないから持っているものへのねたみやうらみつらみであるが、健全な場で、肝心なものがかけている人間が野心を持つことは危険である。
漫画のカイジのその他一同のような集団が、社会でかしこいのと勉強でかしこいのは違うとまさにルサンチマンを代表するような言葉で、負け惜しみのごとく言うのをよく聞くが、ひどい奴になると人に教えるどころか自分がいかにすごいかと言うことを表現しているだけなのだが、言葉や考え方に注意しないとこういう奴らが集まってくる。
人間はルサンチマンを超えてニーチェの言う超人にはなれないし、コンプレックスから100%解放されることはない。
しかしもし今与えられた時間と言うものを有意義に使うことができたならば、少なくともそのことを忘れることはできるのではないか、そしてその積み重ねが人間の活力となるのだと思う。
以前韓国語のサルマシナンダ(生きている味がする)ということを言ったが、韓国人は何かいいことがれば「サルマシナンダ」と言う言葉を使う。
たとえばテストでいい点をとった時、思いがけない収入が入ったときちょっとした喜びを表現するときにサルマシナンダと言うのであるが、我々は日々それを感じて生きることができるから、幸せだと言えるのではないだろうか。
私はここで体重が減ったとか、少し上達したとかいいことがあった時そういう小さなことでもサルマシナンダを感じてほしいと言う願いがある。
そのことを感じてもらうためには、くだらないストイックな考え方やそういう意地は捨てたほうがいい、そしてそういう場であるためには、杓子定規な考え方ではなく、もう少し幅広く考えて運営していかなくてはならない。

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