脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

intercultural understanding

2012-02-24 | Weblog
サッカーの本田選手は時計を両手にしているらしいが、あるインタヴューでなぜ時計を両方にしてるんだということを聞かれて「えっ時計って片方だけって誰が決めたんですか」といったらしいが、私はそれを聞いてもっともだと思ってしまった。
サッカーにあまり興味はないが、私はどちらかというとスポーツ界で興味がある人間はサッカー選手に多い。
なぜなら彼らは自分のフィールドを日本という狭い場所に置くのではなく、ヨーロッパやその他の国で活躍することを願っているからであり、そのため言葉をおぼえて他の文化を吸収する力があるからである。
そういう意味では彼らは常にチャレンジャーで、そういう意気込みはどのスポーツよりも強いように思える。
それに対して以前あるボクシングの人が俺がボクシングの歴史を変えるということを言っていた。
でもその時「変えると言っても英語が話せるの?」「そういう言葉を持っているの?」と思ったのだが、結局その人はお笑いにいじられていたと思う。
言葉というのは非常に大事である。特に海外などで競技するためには英語は絶対に不可欠であるし、今や何をするにも最低ブレーインの一人は英語が話せなくては通用しない時代だ。

だいぶ前ボクシング同好会を作ることで相談にのったことがある。
その時英語が読める人間を顧問におけというアドヴァイスをしたのだが、それは英語で文献などの情報を集めるとはっきりいってその人間がたとえボクシングの経験がなくても、すぐにそのハンデをうめることができ、本気で読み漁れば、かなり力を発揮できると思っているからである。
はっきり言って日本の保守的なスポーツクラブは時代錯誤で、競技者中心のクラブではない。
私から見ればスポーツ選手製造工場で、基本と言って同じことをやらせすぎる。アメリカなどは個性重視でその個性をどう用いていくかということがコーチングの課題であるのだが、おそらくむこうの人間に基本だと言って同じことを徹底させれば、まちがいなくついてはこなくなるであろう。
向こうは小さい時から同じスポーツをさせることはない。
だいたい平均的に小学生なら野球やサッカーバスケットボールなど複数の競技をかけもっていて、競技も実戦形式から入るのが当たり前で、そこでスポーツを競技することの楽しさを学ぶのが欧米のスタイルである。
私は正直日本の運動クラブにある種の疑いを感じているのはこの点であるが、特に基本とか言って小学生に素振りなどを徹底させるのは洗脳に近いように思えるからである。よく子供にボクシングをさせるなというのは、こういうシステムだと子供がはまりやすいし、そういう点に於いては、欧米よりも危険度は間違いなく高いからだ。欧米の場合は他にも選択権がたくさんあるし、必ずしもその競技にたいしてどっぷりというわけではない。
しかし日本のシステムだと、ひとつのことを一生懸命やるのが尊いことだと教えられ、半ば洗脳のような指導をするので、それがすべてだと猪突猛進に同じことを来る返すのだが、選択権を与えないシステムで、予備軍を作るのはいささか人権を無視している。
率直に言って、もう少し人権というものをグローバルスタンダードで学ぶ必要がある奴はこういう世界にごまんといる。
たぶんそういう奴らにこういうことを言ってもわからない。
そういう奴らは往々にして語学に疎いと思っているのだが、おもしろい話がある。
それは教育学の話であるが「生徒指導」という言葉がある。
これを英語にどう訳すかということであるが、たぶん文化科学省などはこの生徒指導という言葉を英語に訳す時に「student guidance」と訳すと思う。
確かNHKの英語のニュースでもそう訳されていたと思うのだが、しかし英語圏ではそうは言わない。
生徒指導という言葉を彼ら彼女らはどう訳しているのかと言うと「student control」もう訳さなくてもこの言葉がどう響いてくるかということがわかるのだが、ここに人権とか自由のとらえかたの違いが顕著に表れているのだが、これはまさに今のスポーツ界にもあてはまることである。
私の感想ではクラブに入ると、それがすべてで選択権がなくなる。ひどいところになると勉強すらする時間も与えないのだが、こういうクラブは人権を蹂躙しているといえないのだろうか。
いくら強豪チームであっても高校生や中学生であるならば夏に「夏期講習があるのでクラブにこれません」とか「夏場はビーチバレーをやりたのでそっちに行きます」というのもありだと思う。
それをやれ全国をめざせなどとニンジンをぶらさげて煽るのは問題だし、そういうシチュエーションをつくりあげるシステムと言うのにもかなり問題がある。
ルースベネディクトが「菊と刀」で日本人は方法論よりも心の在り方すなわち士気を高めることを重要視すると言ったが、その士気を高めようとするゆえに雰囲気にこだわるのもひとつの問題点で、結束がかたければかたいほど独特の雰囲気をつくるのだが、それが俗にいうかたまるである。

赤信号みんなで渡ればこわくない。という日本人にむけたアイロニーがあるが、同じことだけをやっている世界ではそれが当たり前になり、ほかの常識など見えない。
聞いた話によるとある運動選手は分数ができないと言っていたが、普通こういうことは一般の社会と比べたらおかしいということがわかるのだが、しかしそういうシステムにのっかれば、それだけをやっていれば認められるののだが、そういうシステムがあるからスポーツバカが生まれるのだが、こういう奴はごまんといる。
その中でもボクシングは危険だ、特に日本人はひとつのことを一生懸命やるのが尊いと教え込むので、そういうシステムにのっかり子供のころから頭をなぐられつづけたらKing of sportsバカになってしまう。

Kpopが少し前からヨーロッパの市場に進出してきている。
うちのフランス人の留学生の誕生日に好きなKPOPのCDをプレゼントしたのだが、KPOPはアメリカではsosoらしいがヨーロッパではかなり人気があるらしい。
それに比べてにJPOPは日本と比べていまいちであるが、たぶんこれは戦略の違いがでていると思う。
たぶん韓国は自国ではパイが小さいので外に出て行かなくてはいけないということで、言語や歌の質やレヴェルなどをグローバルスタンダードで国家がらみで通用するように努力しているのだが、これは先進国で小国(と言ったらおこるが)が生き残っていく方法で「国家がらみで?」と非難する人間もいるが、しかし私はこういうやり方もありだと思っている。
スポーツにおいて日本は小国と言ってもいいだろう。
特にアマチュアボクシングなんかは小国の小国、日本でいえば小豆島以下かもしれない。
そしてもし小国が大国にかわるためには、自分たちの基準をグローバルスタンダードにあわせるべきだと思う。そのため英語は不可欠だ。



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