脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ヘタレですか、何か?

2012-02-06 | Weblog
2月の中旬だがオリンピックのメダリストと個人的に会うこととなった。
日本人か外国人かは今あえて書かない、本人の了承を得たら名前を公表しようと思うが、かねてから韓国語が流暢で魅力のある人だったので、たいへん興味があったのだが、実はこの方も私の話しを聞いていて、私に興味を持ってくれているということで、お世話になっている人のはからいで、そっちに仕事で行くから食事でもごちそうしてやってくれやと言うことで、一緒に食事をすることになった。
さっきも言ったが私はこの人に非常に興味がある。
まず語学が堪能なこと、そして、思慮深さを持っているので、運動部のようなバカ騒ぎするような明るさではなく、そういう明るさが笑い顔にでてうて、一度話しをしてみたいとは思っていたのだが、まさかこんなかたちで会えるとは思っても見なかったが、会ったらいろいろと運動部のいじめや問題など、聞いた話しや体験したことなども交えて話し、そういうことにたいしてどういうことをしたらいいのかということを実際に聞いて、場合によっては協力してもらおうと言う気はある。

話しは変わるが最近ある親が子供にボクシングをさせたいと言うことで来た。
土曜日の2時頃ベルが鳴ったので出て行くと、金髪風の一見こわそうな人が立っている。
最初見てあかんと思ったが、それでも話しを聞きたいと言うので、ジムに通したが、やはり私の直感は正しかった。
よく観察しなければならないタイプだったので、誘導訊問していろいろ話をききだすと。子供にボクシングさせるのはケンカのアドヴァンテージ見たいに考えていて、ボクシングを習わすのは実践的だからで、思った以上に考え方はDQNであった。
結局あまりにも考え方が短絡的で、やるかやられるかの世界を強調するので、もうここまで言うんだったら「ナイフをもたせたほうがいいんじゃねえのか」と真面目に言ってやろうと思ったが、しかしそんなことを言ったら間違いなくなぐられるので、ここはこどもになぐりあいはさせないと言うとボクシングでなぐり合いをさせないのはおかしいと不思議がって帰って言ったが、トラウマやコンプレックスを持っている人間は言葉や行動など暴力的である。

最近子供を見ていて思うことは、争いごとをこのまない子供が増えて来ていると言うことである。
彼ら彼女らは自己肯定感がしっかりしているのか、小学生などにもマスボクシングで相手を思いきりうたせてやると言っても、ためらう子供がほとんどで、一昔前ならば学歴やその他でコンプレックスを持った人間がなにくそうと言う気持ちになってむかって行ったものだが、しかし今ではそういうコンプレックスを持った子供ばかりではなく、人を傷つけるなんてできないという子供が大多数ではないかと思っているが、そう言う子供が大多数の中、いつも追い詰めた状況をつくって、にげるなむかっていけと言うようにコンプレックスのうらがえしで競争心の煽るような発想はかなり危険なことである。
私は小中学生の時代に実際になぐりあいをさせるということに関しては医学的な問題とは別に、心の問題もあると思っている。
人をなぐると言うのは特別な行為である。その特別なことを小中学生の過渡期であり、心が敏感な時に人をなぐるなんてできないと言う気持ちがあるのに、それをあえてさせると言うことで何か得るものがあるのか?あるいは悪い影響はみられないのか?というある種の懸念がある。
おそらくそういうことをさせるのは、単なる勢いだけにすぎないと思っているが、こういう危険なことをよくわからないのにさせることは私はかなり非常識なことだと思っている。
まわりはかっこいいことを言ったり、がんばれなどと煽ってモティヴェーションを上げようとするが、しかしふたを開けて見れば無学な人間の集まり、はたして本当に子供のメンタル面やフィジカルな面の成長を考えているのだろうか?
医学的な見地や外国の情勢そういうことを踏まえたら、常識的になぐりあいなどさせるてはいけないと思うが、たぶんそういう集団は客観的に物事を考える訓練ができていないので、そういう常識で物事をとらえる能力はないと疑っている。

少し辛辣な意見であるが、今スポーツクラブでいろいろな人と接し、特に子供などを預かるのであれば、そういう子供のフィジカル面やメンタル面などの考えたら無学ではいけない時代である。
指導者もそういうことに十分に対応していくために、たくさんのことを学んで研鑽しなくてはいけない、そういう時代だと思っている。
うちのクラブの人間は外国語ができるとか、留学経験があるということを鼻にかけるわけではないが、広い世界に出た人や何かをしっかり学んだ人はコモンセンスもしっかりしていて、バランス感覚がある。そして話していて面白いしためになる。
実際にここのマネージャーは英語とドイツ語に堪能でよく、いろんなところから情報収集してくるのだが、多面的な目で物事を考えて、何が正しいかと言うことを判断できる訓練をしているので、バランス感覚はすぐれていて、言い方は軽いが、相談できる私の相棒と言ってもいいが、こういうアドヴァンテージが学問をしっかり学んだ人にはあると思う。
それに対して外の世界に出ようとしない、外国語も理解しようとしないし、本も読まないと言う人間は、この多様性の時代にはコモンセンスや常識と言うものを持って対応し、まとめていくことができない、所詮集まったところで仲間の集まりにすぎないと思っているが、繰り返し言うがこういう多様性の時代に、物事をしっかりと学ぼうとしない人間は信頼するには値しないだろう。
昔はADHDやアスペルガーの子供はただの問題児にかたづけられていたが、今ではそういうことを認めいろいろとケアの仕方が研究されているが、この多様性の時代は、そういうことも含めて子供のフィジカル面やメンタル面でのことをいろいろと理解していなくてはならないと思うが、そう言うことをはたして理解しているのか、そういう理解と言うのも今の世の中求められていると思うのだが、そういう理解はただ単にボクシングをしきただけでは分からないことである。
学がなければ通用しないと言うのは、そういう諸問題だけではなく、子供や青少年のフィジカル面やメンタル面をスポーツクラブが支え、かかわっていく必要もあるからで、ただ興味をそそってつなぎとめるだけでは学校の前でやる行商にすぎないのではないだろうか?

オリーヴは情や仲間意識でかたまるクラブではないので、バカなことを言ったり、常識的な判断ができなければまわりはついてはこない、そういう意味では社会的には安心できるコミュニティであると思っている。















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Isolation

2012-02-03 | Weblog
時々イオンショッピングセンターで、某宗教団体の外国人宣教師をみかける。
彼らはユタ州に多い宗教から派遣されてきたのだが、実は私には彼らをからかうと言う悪趣味がある。
彼らはよくフードコートのまわりをうろうろして、話し相手を捜しているのだが、わたしはわざとその近くに行って声をかけてくるのを待っている。
しかし私には決して声をかけてこない。こいつは何ものか、話しかけてはいけないというオーラが出ているのだろうか?目があっても知らんぷりである。
それでも誰もいなくなると声をかけなくてはいけないという義務感が働くのだろうか、話しかけて来たので話しをしたのだが、日本人は英語が話せないと思っているのか、最初は英語が分からないふりをして、いきなり話すとかなり驚く。
だいぶ前はその驚きついでに、自分たちはどこどこのということを明かそうとしようとした時に「ああ知ってる。君たちはbrance davidiansという集団だろ、みんなそう言っているから」と言ったらかなりあせっていたが、このbrance davidiansと言うのはアメリカのこわいカルト集団で、彼ら彼女らは自分たちの宗教施設に引きこもってFBIを銃撃戦をおこし、かなりの死傷者を出したことは有名である。
その話しを聞いてかなりあせって我々は違うと説明していたがいたが、しかし私が最後に「日本人は一人がそう思うとみんなそう思っているからたいへんだよ」と言うと、半泣きでいかにも帰りたそうな顔をしていたが、私もかなり悪趣味である。
断わっておくが彼らは悪いカルトではない。無理に人を拉致したり、お前には悪魔がついているなどと脅すようなことはしないので、あくまで自分はご愛嬌で(彼らにしたら度を越えているかもしれないが)やっていると理解していただきたい。
でこの前めずらしく彼らが話しかけて来たので、いろいろと話をしたのだが、その話しの中でいろいろとわかったことは彼らがここに来るのにいろいろと日本のことを勉強してきていると言うことである。
日本人の生活や習慣、文化、そして宗教など、かなり古い文献を見て来ているなあと言う節もあったが、しかし聞いていて興味深かったのが、彼が鎖国と言う言葉を口にしたことである。
「tokugawa bakufu」「sakoku」と言う言葉を日本語でそのまま使っていたのだが、この鎖国を経験したことが日本人の心をかたくなにしていると言うのである。
まあかなり古い時代のことであるので、なんともそれは言えないが、しかし徳川幕府と言う長い時代が、日本人を封建的な考え方にしたわけであって、鎖国はその延長線上にあるもので、おそらくそういう性質が多少なりとも我々の深層心理の中には存在していると言うことも否めないことではないだろうか?

「鎖国」は英語で「isolation」これは日本語では「孤立」とか「分離」と言う言葉にあたると思うが、私はこの「isolation」を単に人と独立して単独で存在するということではなく、現代においてこの言葉は情報を遮断することと思っているが、だいぶ前日本のアマチュアは徳川幕府だと言ったのは、英語ができないのでそういう情報が十分にひろえない、ついていってはいないからである。
今情報収集に英語は不可欠、そういうことを無視しすると世界にはどういう動きがあるのか、十分に国際的な感覚については行けず、それができないから封建的になるのだと思っているが、情報がボクシングマガジン程度ではおそまつすぎて話しにならない。

私からみれば、それだけしかしないという運動部の人はみんな同じように見えるし、個性がない。
おそらく指導者が情報収集がしっかりできていないと、個人の情報にも限界があるのだろうか。その影響は群れにも出てくる。
前にも言ったがオーケストラの集団でもないのに「シャドウで山場をつくれ」などと言うバカな間違いをどうどうと言ったり、本も読まない奴が人の生き方や人生について教訓をたれるのは危険だ。
そういう指導者は得てして、人生をボクシングなどのスポーツに例えて、教訓をたれるが、ひどい奴になるとボクシングやスポーツは教育やすべてのものを越えて素晴らしい、だからこれを一生懸命やると言うことは素晴らしいことなんだというような思っているのだが、しかしそういうことはかなり短絡的で感情的、それこそ学問を無視した人間が、批判力もないのにただいきおいと感情だけが先走って言うことは、同じような仲間を生み出すだけである。
私は知性を重んじない人間ほど、結託して仲間をつくりたがると思っている。ボクシングクラブもやくざの集団か社会人のあつまりかというのはその指導する人の考え方、どれだけ知性を重んじるかと言うことによると思っている。
私は必ず電子辞書を持っているのだが、それはここには社会人が多く、もし話していて自分が初歩的な間違いや間違った事をいうとバカだと思われ信用をなくすからだ。
ここには自分よりもひとまわり若かっても、自分よりも国語力の高い人もいる。読んだ小説の内容や数を聞いたらわかるが、おそらくそういうことをしっかりすることが指導者にに求められることであって、仲間意識や情で集まるのとはかなり違うと思っているのだが、私はこういう距離感と言うかバランスが社会人中心の群れには必要ではないかと思っているが、もしバカな指導者を情や仲間意識だけで認めると、もはや社会的な感覚でははなく、暴走族ややくざの集団とかわらない、あいさつはでかい声でできても、そこにどっぷりつかってしまうと社会で求められる感覚が十分に育たない。

英語だけではなく、学習して情報を集める能力がなければ、言葉に広がりがなく、十分な情報をえることができない。
そしてそれはその群れのレヴェルにも大きくかかわってくる。
昔アメリカで韓国人の友人の教会のクリスマスパーティーに誘われて行った時に、そこにはかなりステータスの高い人間がいて、その教育レヴェルに驚かされたということを書いたことがあるが、よく観察してみると彼ら彼女らのつかっている言葉が非常に洗練されていて、こういう言葉を指導する人が注意して心がけているからこういう群れになるんだと思ったが、それはわれわれのクラブという群れでも同じことだと思う。

ミーティングなどと称してそういう集まりの中で、ボキャブラリーのない奴が、同じようなことを繰り返し、乏しい言葉で語られるだけでは、正直私は知性とか社会性を育てて行くのにはむしろ悪影響だと思っているが、分かりやすい例で言えば漫画や雑誌以外は本など読まないと言う人間がそうであるかもしれない。
ひょっとしたら指導者であいさつと一応敬語らしき言葉を使えば、社会で十分通用すると思っている奴もいるのだろうが、しかし勘違いも甚だしく、第一日本語をまちがえたり、チワーッスと言うようなあいさつをしてもいきおいがあればOKであるからおそろしいもので、今は英語などが話せないと就職できない学力重視の時代だ、こういう奴は今からでも辞書を買ったほうがいいだろうが、こういう時代であるから指導する人間も十分に言葉を学び、選んで話さなくてはならないと思っている。

だいぶ前ある子供が大事な時期に試合に出場しようと言うことがあって、だめだと言ったことがあった。
勉強に一番専念しなければいけない時期にそう言うことを言うので、私はそういう大事な時期に本来専念しなくてはいけない勉強よりも、スポーツに力を入れること自体よくないことで、正直ここに来ることもどうかと思っているのだが、以前もそういう子供に勉強に専念しろということを伝えて、休会させたことがあって、ここのクラブの方針とは違うので協力できないと断ったが、一応参考までに意見を伝えてあげるために、他の人にも聞いたのだが、ここは進学校出身の人が多いからだろうか、聞いた人は全員そうすべきではないということを言っていた。
ただよくわからないのが、応援してくれる人がいると言う。それは体育会の顧問とどこかの部員だそうだ。
なぜこの時期にと思ったのだが。
おそらくその時悔いのないように思いきりやったら、あとは受験に専念できるらしいのだが、しかしそんな短絡的なものなのだろうか?
よく体育会の人間は完全燃焼などという言葉を持ちだし、悔いのないようにと言うことを言うのだが、しかしはたしてスポーツを真剣にやってきてやりのこしのない人間なんているのか、よく昔ボクシングをやってましたという人間が自分の武勇伝を語ったり、これ見よがしに自分のパフォーマンスを見せるのは、正直未練たらたら自分はもっと目立ちたいと言うのがみえみえであるが、正直完全燃焼とは漫画の言葉だけのことで、人間はそう単純なものではないと思っている。
軍隊ならまだしも、おそらくそういう短絡的な考え方では、このグローバルの時代を生きて行くことは厳しいと思うが、おそらくそういう指導者が情報を求め、学習しないとその群れに広がりはなく、それしかできないという集団になってしまうのだと思う。


















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履歴書のフォームがかわる?

2012-02-01 | Weblog
頭打ちという言葉がある。
もうそういう風習は古くて今の時代には通用しないので、死語であると思っていたが、しかし田舎などの会社や役場などにいくとそういう風習というかそういうことをする奴が必ずいるらしい。
日本には「出る杭はうたれる」と言うことわざがある。
目立った人間に制裁を加えて、まわりが頭打ちするというようなことであるが、とにかく目立った人間や秀でたを目立たせないようにさせるのが、日本の古い風習のようなものであったと思う。

おそらく大学や大学院で高い専門知識を学んだ人間を若いからと言って、ひよっこ扱いするのは日本ぐらいであると思うのだが、よく封建的なおやじが「あいつは大学を出たのにつかえない」とか「社会と勉強は全然違うから一から勉強をし直せ」と言うのは一種の頭打ちのようなものだと思うのだが、しかしこういう頭打ちは、不十分なシステムがゆえにおこるちぐはぐや、コンプレックスやねたみ、おそれからくるものであって、決してそれが教育的であったり。建設的であるとは思えない。
何年か前からパワハラと言う言葉が使われだしたが、実はパワーハラスメントと言う言葉は日本語である。
性格に言えばモラルハラスメントであるが、しかし日本で言うパワーハラスメントは上司などが部下に対して行う、非社会的で非人道的な行為であるが、実はこの手のハラスメントは例え上司と部下であっても関係はフラットであるということが前提としてある欧米には存在せず、こういうパワハラ自体あることがいかに封建的であるかということがわかる。

出る杭は打たれる、封建的な社会に秀でた人間がいるとそういうことがあるそうだが、私はむしろ彼あるいは彼女は、そういう高い教育を受けて来たのであるから、その専門性を十分に認めていかせるポジションを与えてやるのが、その上司の力量だと思っているのだが、たいしたことがない奴に限って、お前はできていない、ここがだめだと相手のあらをさがして何とか自分を優位に立たせようとする。
しかしそういうことをしても何も得るものがない、特に平均的に専門性がとぼしい職場なんかはそういう人間の専門性を認めて、そういう人間にイニシアティヴをとらせてやったらいいと思うのだが、しかし人間と言うのはそういう性質なのだろうか、出る杭はうたれてしまうのである。
日本は中途半端に平等主義であるから、特別な考えや才能のある人間には非常にやりにくい国である。
ある大学の講師が、日本は資本主義でも社会のシステムは社会主義の恩恵を受けていると言うようなことを言っていたが、日本は他の国に比べたら福祉がしっかりしていていい部分はあるが、しかしそれゆえに平均以上のものを認めることができない国であると思う。

私が今感じていることは今の若い人たちの中には自分を認めてもらいたいと言う願望が強く、実際にそれだけ高い教育をうけていても評価されないと感じている人たちがいるということである。
それは本当にその教育や専門性が使えないのか、はたして社会自体がこういう若者を使いこなすことができないかはわからないが、しかし大学で十分に専門の知識を身に付けたのに、それを十分に生かすことができないということはよくあることではないかと思っているが、実際にそういうことに不満を持っている人はいることは確かである。
今は即戦力の時代だ、教育にしても何にしても即戦力になる優秀な人材を育てなくてはいけないと思っているが、しかし年功序列で封建的な社会では、そのスキルを生かすどころか人間関係の派閥や軋轢に気を使うことで精いっぱいで、それでは即戦力になる人材を十分に育てることができないのではないかと思うのだが、実際にそういう封建的な会社はここには結構あるそうだ。

先日ある営業マンと話しをしていた。
その営業マンがはある地方に営業所を立てる計画があるらしいので、その話しをいろいろと聞いていたのだが、その計画は灰色だというのだ、何が灰色か言うとその営業所が10年後にはどうなるのか分からないと言う理由だそうだが、しかしこの時代に10年後と言うスパンで物事を考えているところが時代錯誤である。
それに対して上海に友人がいるのだが、彼女は文化教室をビルで10ほど経営している。
その時実際その経営しているビルの写真を見せてもらったが、今現在その仕事は順調にいっているらしいので「ひとつくれ」と冗談で言ったのだが、驚いたことに「いいよ」という答えが来た。
「えっホントに」と言うと、さらにこう続ける。
たぶんここ上海では5年後どうなるかわからない、また新しいことを考えなくては、ひょっとしたらまったく別のことをやっているかも知れない、そういうリスクがあるけどと言うのだが、もしそうなった時には即戦力が必要で、そういう能力や人材が求められるのではないかと思っているが、彼女の考え方に日本人特に保守的な考えの人とはかなりの温度差があると言うことを感じたことは確かである。

今はもう即戦力の時代で、人材がふるいにかけられる時代である。
もう大都市なんかはそういう傾向が十分に見られるが、ある企業なんかの採用基準がTOEIC500点以上何て言うのはまさに、そういう海外でつかえる即戦力になれる人物を求めているわけで、今の企業面接ではやる気や印象と言うことよりも、彼彼女にどういうスキルがあり、彼彼女は使えるか使えないかということが求められ、そういうことを問われる時代になって来ているのではないかということを大学生で就職活動を人たちの話しを聞いて思わされる。
彼ら彼女たちは必死である。なんとか使える戦力になろうとしてがんばっているのだから、使えないどころかふるいにかけて選べば十分に使える優秀な人材は見つけることはできる。あとはその持ち場を与えることが大事だと思っている。
おそらく自分の予想では、履歴書の書き方やかたちがここ何年かでかわるだろうと思うが、そういうことにたいしてアドヴァンテージをもったフォームを開発して提案するのもいいのではと思っている。







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