脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Isolation

2012-02-03 | Weblog
時々イオンショッピングセンターで、某宗教団体の外国人宣教師をみかける。
彼らはユタ州に多い宗教から派遣されてきたのだが、実は私には彼らをからかうと言う悪趣味がある。
彼らはよくフードコートのまわりをうろうろして、話し相手を捜しているのだが、わたしはわざとその近くに行って声をかけてくるのを待っている。
しかし私には決して声をかけてこない。こいつは何ものか、話しかけてはいけないというオーラが出ているのだろうか?目があっても知らんぷりである。
それでも誰もいなくなると声をかけなくてはいけないという義務感が働くのだろうか、話しかけて来たので話しをしたのだが、日本人は英語が話せないと思っているのか、最初は英語が分からないふりをして、いきなり話すとかなり驚く。
だいぶ前はその驚きついでに、自分たちはどこどこのということを明かそうとしようとした時に「ああ知ってる。君たちはbrance davidiansという集団だろ、みんなそう言っているから」と言ったらかなりあせっていたが、このbrance davidiansと言うのはアメリカのこわいカルト集団で、彼ら彼女らは自分たちの宗教施設に引きこもってFBIを銃撃戦をおこし、かなりの死傷者を出したことは有名である。
その話しを聞いてかなりあせって我々は違うと説明していたがいたが、しかし私が最後に「日本人は一人がそう思うとみんなそう思っているからたいへんだよ」と言うと、半泣きでいかにも帰りたそうな顔をしていたが、私もかなり悪趣味である。
断わっておくが彼らは悪いカルトではない。無理に人を拉致したり、お前には悪魔がついているなどと脅すようなことはしないので、あくまで自分はご愛嬌で(彼らにしたら度を越えているかもしれないが)やっていると理解していただきたい。
でこの前めずらしく彼らが話しかけて来たので、いろいろと話をしたのだが、その話しの中でいろいろとわかったことは彼らがここに来るのにいろいろと日本のことを勉強してきていると言うことである。
日本人の生活や習慣、文化、そして宗教など、かなり古い文献を見て来ているなあと言う節もあったが、しかし聞いていて興味深かったのが、彼が鎖国と言う言葉を口にしたことである。
「tokugawa bakufu」「sakoku」と言う言葉を日本語でそのまま使っていたのだが、この鎖国を経験したことが日本人の心をかたくなにしていると言うのである。
まあかなり古い時代のことであるので、なんともそれは言えないが、しかし徳川幕府と言う長い時代が、日本人を封建的な考え方にしたわけであって、鎖国はその延長線上にあるもので、おそらくそういう性質が多少なりとも我々の深層心理の中には存在していると言うことも否めないことではないだろうか?

「鎖国」は英語で「isolation」これは日本語では「孤立」とか「分離」と言う言葉にあたると思うが、私はこの「isolation」を単に人と独立して単独で存在するということではなく、現代においてこの言葉は情報を遮断することと思っているが、だいぶ前日本のアマチュアは徳川幕府だと言ったのは、英語ができないのでそういう情報が十分にひろえない、ついていってはいないからである。
今情報収集に英語は不可欠、そういうことを無視しすると世界にはどういう動きがあるのか、十分に国際的な感覚については行けず、それができないから封建的になるのだと思っているが、情報がボクシングマガジン程度ではおそまつすぎて話しにならない。

私からみれば、それだけしかしないという運動部の人はみんな同じように見えるし、個性がない。
おそらく指導者が情報収集がしっかりできていないと、個人の情報にも限界があるのだろうか。その影響は群れにも出てくる。
前にも言ったがオーケストラの集団でもないのに「シャドウで山場をつくれ」などと言うバカな間違いをどうどうと言ったり、本も読まない奴が人の生き方や人生について教訓をたれるのは危険だ。
そういう指導者は得てして、人生をボクシングなどのスポーツに例えて、教訓をたれるが、ひどい奴になるとボクシングやスポーツは教育やすべてのものを越えて素晴らしい、だからこれを一生懸命やると言うことは素晴らしいことなんだというような思っているのだが、しかしそういうことはかなり短絡的で感情的、それこそ学問を無視した人間が、批判力もないのにただいきおいと感情だけが先走って言うことは、同じような仲間を生み出すだけである。
私は知性を重んじない人間ほど、結託して仲間をつくりたがると思っている。ボクシングクラブもやくざの集団か社会人のあつまりかというのはその指導する人の考え方、どれだけ知性を重んじるかと言うことによると思っている。
私は必ず電子辞書を持っているのだが、それはここには社会人が多く、もし話していて自分が初歩的な間違いや間違った事をいうとバカだと思われ信用をなくすからだ。
ここには自分よりもひとまわり若かっても、自分よりも国語力の高い人もいる。読んだ小説の内容や数を聞いたらわかるが、おそらくそういうことをしっかりすることが指導者にに求められることであって、仲間意識や情で集まるのとはかなり違うと思っているのだが、私はこういう距離感と言うかバランスが社会人中心の群れには必要ではないかと思っているが、もしバカな指導者を情や仲間意識だけで認めると、もはや社会的な感覚でははなく、暴走族ややくざの集団とかわらない、あいさつはでかい声でできても、そこにどっぷりつかってしまうと社会で求められる感覚が十分に育たない。

英語だけではなく、学習して情報を集める能力がなければ、言葉に広がりがなく、十分な情報をえることができない。
そしてそれはその群れのレヴェルにも大きくかかわってくる。
昔アメリカで韓国人の友人の教会のクリスマスパーティーに誘われて行った時に、そこにはかなりステータスの高い人間がいて、その教育レヴェルに驚かされたということを書いたことがあるが、よく観察してみると彼ら彼女らのつかっている言葉が非常に洗練されていて、こういう言葉を指導する人が注意して心がけているからこういう群れになるんだと思ったが、それはわれわれのクラブという群れでも同じことだと思う。

ミーティングなどと称してそういう集まりの中で、ボキャブラリーのない奴が、同じようなことを繰り返し、乏しい言葉で語られるだけでは、正直私は知性とか社会性を育てて行くのにはむしろ悪影響だと思っているが、分かりやすい例で言えば漫画や雑誌以外は本など読まないと言う人間がそうであるかもしれない。
ひょっとしたら指導者であいさつと一応敬語らしき言葉を使えば、社会で十分通用すると思っている奴もいるのだろうが、しかし勘違いも甚だしく、第一日本語をまちがえたり、チワーッスと言うようなあいさつをしてもいきおいがあればOKであるからおそろしいもので、今は英語などが話せないと就職できない学力重視の時代だ、こういう奴は今からでも辞書を買ったほうがいいだろうが、こういう時代であるから指導する人間も十分に言葉を学び、選んで話さなくてはならないと思っている。

だいぶ前ある子供が大事な時期に試合に出場しようと言うことがあって、だめだと言ったことがあった。
勉強に一番専念しなければいけない時期にそう言うことを言うので、私はそういう大事な時期に本来専念しなくてはいけない勉強よりも、スポーツに力を入れること自体よくないことで、正直ここに来ることもどうかと思っているのだが、以前もそういう子供に勉強に専念しろということを伝えて、休会させたことがあって、ここのクラブの方針とは違うので協力できないと断ったが、一応参考までに意見を伝えてあげるために、他の人にも聞いたのだが、ここは進学校出身の人が多いからだろうか、聞いた人は全員そうすべきではないということを言っていた。
ただよくわからないのが、応援してくれる人がいると言う。それは体育会の顧問とどこかの部員だそうだ。
なぜこの時期にと思ったのだが。
おそらくその時悔いのないように思いきりやったら、あとは受験に専念できるらしいのだが、しかしそんな短絡的なものなのだろうか?
よく体育会の人間は完全燃焼などという言葉を持ちだし、悔いのないようにと言うことを言うのだが、しかしはたしてスポーツを真剣にやってきてやりのこしのない人間なんているのか、よく昔ボクシングをやってましたという人間が自分の武勇伝を語ったり、これ見よがしに自分のパフォーマンスを見せるのは、正直未練たらたら自分はもっと目立ちたいと言うのがみえみえであるが、正直完全燃焼とは漫画の言葉だけのことで、人間はそう単純なものではないと思っている。
軍隊ならまだしも、おそらくそういう短絡的な考え方では、このグローバルの時代を生きて行くことは厳しいと思うが、おそらくそういう指導者が情報を求め、学習しないとその群れに広がりはなく、それしかできないという集団になってしまうのだと思う。


















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