脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

When I was small.

2008-03-11 | Weblog
自分が子どもの頃のヒーローはウルトラマンであった。
最近このまたウルトラマンはメビウスの出現によって、新たな人気を得ている。
このメビウスのことは以前のブログでも書いたが、たいへん哲学的である。
どこが哲学的かというと、人間とはどうあるべきかということを、このウルトラマンを通して伝えているという点で、ウルトラマンはどちらかというと、実存主義的である。
そして特に興味深いのは彼らの生き方である。
人間と共に戦い、支え合うことによって生きることが彼らの生き方であるが、以前にも述べたように、彼らの生き方は、ただ強うヒーローということではなく、むしろ人間のために苦しみを共に担い戦うヒーローであり、彼らはそのことに於いて,ただ戦うことの強さだけではなく、愛と勇気とをもって敵と戦い、打ち勝つ正義のヒーローである。
ウルトラマンの歌で「ウルトラの奇跡」という歌がある。その歌の中で「つらいときでも決して負けないように、本当の勇気を見せてくれる」というのがある。
男が強くなるというと、自分が超人的な力をつけて、完膚無きまでに相手をやっつけるそういう能力のことを言い、どちらかといえばそういう能力を身につけたがるが強さというのは決してそうではない。
強さというのは「相手をいたわる心」であり、むしろそれはつらいときにこそ頑張り、戦う姿がなければ見えてこないのではないだろうか。
私はウルトラマンおたくではないが、彼らの生き方は子ども達の大切なメッセージかもしれない。
おそらく彼らのこういう生き方が、世代をこえて指示されているのではないだろうか。

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NO BORDER

2008-03-08 | Weblog
ハワイにパールハーバーという有名な観光地がある。
今はだいぶアメリカ政府の見解も変わり、ましになったがそれでも昔は、日本人が行くとアメリカ人(特に白人)には敵対心をもった目で見られたものである。
しかし私はこの攻撃を奇襲攻撃と考えてはいない、当時の大統領のルーズベルトが
戦争をしないという公約を破るために、パールハーバーを利用したというドキュメントが見つかっているらしく、おそらく当時神風や、ただ突き進んでいくだけの戦略しかなかった、それでいて誇り高い民族と思っている日本人が、そのようなことはできないのではないかと思っている。
私はこのパールハーバーにピーターという友人と行ったことがある。
まだ日本人に対して偏見が残っていて、心なしかまわりの人間が自分のことを変な目で見ているような気がした。
以前アメリカ人のPという人物が広島に旅行に行った話をしてくれた。
その時彼は、広島の原爆ドームに行ってきたということをさらっと言ったのを聞いて、思わず胸ぐらをつかみそうになったが、彼らの当時の気持ちは今になってよくわかる。
しかしその時、自分はそういう感じにとらわれたのがいやであった。
そして台湾人である彼にこういった「こんなこといつまで根にもっとんねん。いいかげん忘れろ(it has a grudge such s thing when. they must forget it)」
しかしそう言った自分に彼は諭すように言う「岡崎 それは決して忘れてはならないんだ。パールハーバーも広島もだ(okazaki never forget, and pearl harbor is so, and hiroshima is so.)」
この時二人の間にしばし沈黙が保った。
我々人間は他の国の人間と交流を深めるにあたって、歴史的見解、体験という大きな「かべ」が存在する。
それは被害者であったり、加害者であったり、歴史的な真実をねじ曲げられたり、いろいろではあるが、恐らく言葉や習慣の違いよりも大きな「かべ」がそこには存在する。
しかし結論から言うとその「うらみの連鎖」というものを我々は断ち切らなくては前には進まない。
偉そうに言うがそれを断ち切らなくては、いつまでたっても人と人との間にカオス状態が続くのである。
「恩赦」ということばがある。
これはあまりつかわれない言葉であるが「ゆるす」ということばであるが、しかしこの「恩赦」という言葉は、あやまったから、ゆるしてやろうとか仕方がないから許してやろうというようなレベルではなく、ただ一方的に赦すということで、それは天皇が特別に死刑を免除するときに「恩赦」ということばがつかわれる。
人間というのはただ許すということではだめだ、なぜなら見返りを求めるからだ。
私はきれい事をいいたいわけではないし、世界平和をメルヘンチックに唱えるつもりはない、昔カップヌードルのCMで「NO BORDER」などと言っているのを聞いてそんなことを言ってのけるのは日本人ぐらいだ(しかもCMで)と思ったが、世界平和などとむやみやたらに言う人間は、精神年齢が低いとさえ思っている。
しかしこの「NO BORDER」「平和」ということばは我々大人のことばではない、子どもの願いである。
話は飛ぶがそれは国家間だけではなく、家や地域社会でもそうである。
我々大人はこどもが平和で、かつ安全に生活できる環境を、ととのえなくてはならないのではないだろうか。
この21世紀のキーワードは「ゆるし」であると思う。
「ゆるす」こと「ゆるされること」を経験することが人間の成長させ、何よりも心に平和な状態をつくりだすことができるのではないだろうか。
ある作家は「ゆるされるよりもゆるすほうが多くのものを与えられる」と言った。
これは何を意味しているのだろうか。

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2008-03-07 | Weblog
「すべての子ども達は、神がまだ人類に失望していないというメッセージをもって生まれてくる」
ラビーンドラナート.タゴール
昔ある学校の先生から子どもにボクシングを教えてやってくれと頼まれた。
何でも彼は今施設にいるらしく、学校でもパニックをひきおこして暴れる超問題児らしく、彼がボクシングをやりたいといったので連れてきたらしい。
最初は軽はずみにOKのサインを出し、教えることにしたが、しかし彼が成人になるまでの間、彼と私の間でいろんなことがあった。
何があったかと言うことは一言では言えないので書かないが、しかし彼がボクシングを通してみるみる変わっていたことは、まわりから見て明白なことであった。
あるカウンセラーはあまりの変化に驚いていたようであるが、彼が卒業論集に自分は将来ボクシングの世界チャンピオンになると書いたのだが、子どもというのは、自分がこうしたいという夢をもつと、変わるんだなあということを実感させられた。
私自身カウンセラーではないが、子どもは夢を持てば変わると思う。
やる気を与え、本当にそれが自分にとって素晴らしいものだと思えば、一生懸命にがんばろうとする、それが子どもなのではないだろうか。
しかし我々はその夢を絵本の中の世界のように、メルヘンチックに語っていてもだめだ、とにかく何かをやらせなくては夢は見えてこないのではないだろうか。
何かをさせるためには、きっかけが必要である。そのきっかけは大人が子どもに話しかけようとする姿勢がなければ見えてこない、MOBにも何人かの子どもが来ているが、接していてわかることは、子どもは大人が考える以上に影響を受けやすいということである。
現代社会はとにかく何をするにも忙しい、都会などは昔のように子どもと大人が共存して生きているとは思えない時代になったが、他人事ではなくもっと大人が子どもに感心をもたなくてはならないのではないだろうか。













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ヒラリーのエッセイを読んで

2008-03-05 | Weblog
「私たちが子どもの未来のためにできること」というヒラリー.ロダム.クリントンの書いたエッセイがある。
エッセイと言ってもタレントが書いた、身近なことに共感を覚えるというような中身のないエッセイではなく、彼女が弁護士として、ファーストレディとして、そして母親としての立場から、子どもをどう育て教育していくかと言うことが書かれている。
本の具体的な内容は、あまりにもいろんなことが書かれているので全部書ききれないが、この本のタイトル「一人の子どもを育てるには村中みんなの力が必要」は家族全員が健在で、社会全体が子ども達を十分に保護して、はじめて子どもが元気に育つのだという内容であるが、とそれは同時に「村」というのは、人間の目が行き届く範囲の場所であり、子どもを育てるというのは、行政や国だけの問題ではなく、社会で生きるひとりひとりの責任にかかっているということを、もっと重くうけとめろということではないだろうか。
このエッセイを読んでいてすごいなあと思ったのは、彼女が親の離婚についてふれ大人の立場がどうであっても、子どもに悪影響を与える場合が多く、はっきりと離婚はよくないと語っていることである。
おそらくこの複雑な社会に於いて離婚がよくないとそう言いきることはできないと思う。
ほとんどの人間は、あれかこれかの選択をし、親には親の事情もあると安っぽいヒューマニズムを持ち出そうとするが、しかしヒラリーははっきりと子どもが育っていくためには家族の絆というものが必要であるとし、その絆を支えるためにもまわりの協力も必要であると言う。
そしてさらに彼女は「結婚は一生つきそう誓いをたてることだったが、今は相手がいやになるまでだ」というようなことを言い、あきらかに子どもの視点で離婚否定し、家族を通して子どもは健全にそだてられると言うことをを主張している。
私は最初ヒラリーという人物があまり好きではなかった、なぜなら合理的で冷血というイメージをもっていたからだ。
しかしこの本を読んでいく中で、イメージが変わった単純かも知れないが、今彼女に持っている印象は一歩先を行きながら、常に大事な原点に帰ることのできる人である。
私自身の意見として、離婚はいいとも悪いとも言えない、そう言い切ることはできないであるが、しかし今離婚の問題にしても学校の問題にしても「子ども」というものをぬきにして語られることが多いのではないだろうか。
話は学校の話になるが、学校の問題になると「いやそんなことはない私は意見を言っている」という親もいると思うが、いいたいことなら誰にでも言える。
自分の子どものことしか考えていない、アホな親が最近増えているそうだが、時々そういう親が子どもについて語り、学校にめちゃめちゃなことを要求したりするが、たいていの場合それは子どもの要求したことではなく、親の要求することで、子どもの声が消されてしまっているのではないだろうか。
大切なのは自分の子どもが目立ったり、特別扱いしてもらうことではない、こどもがどう育つかと言うことを真剣に考え、子どもを守る義務と責任が大人にはあるということだ。
ヒラリーは「村」という言葉を使っているが、子どもの世界というのはある意味村のように小さな世界でもある。
その小さな世界に一歩踏み出す頃からグローバルな視点(英語教育やコンピューターの学習)を押しつけるのは無謀である。
まずこの小さな住人に、我々が教えることのできる当たり前のことを、教えることが必要なことであると思う。そういう点で我々は、彼ら彼女らのひとりひとりの教師となれるのだ。
世界がいかに変わろうと子どもの世界、視点というものは小さいものである。
その小さな世界で、彼ら彼女らは生きているのだと言うことを理解することが、彼ら彼女らの人権を守ることかもしれない。

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コーチングの心得 

2008-03-04 | Weblog
人間というのは基本的に自分勝手である。
エゴという言葉があるがこれはギリシャ語のエゴー(私)という言葉から来たそうでこの言葉からもわかるように人間は常に自分中心に物事を考えている。
エゴということばは古典ギリシャ語の代名詞である。
しかしギリシャ語やラテン語と言った古典の言葉は、動詞そのものが人称によって変わるので、主語が省かれることが多く、代名詞をあえてつかうということは強調を意味している。
だからエゴーと相手が言うのはよほどのことであり、学校の先生が子どもに向かって今から大事なことを言うから聞けよという、注意を促すための上からの言葉でもある強い言葉であるそうだ。
自分は練習生との関係に於いて、物事を説明するとき、あまり俺とか自分という言葉を使わないようにしている。
なぜなら自分という言葉をあまり使いすぎると、その人自信の存在がが追いやられone by one の関係がもちにくく、説明自体が矮小化され十分に伝わらない可能性があるからである。
人間というのは常にエゴーが来る。自分勝手な生き物である。
コーチングする時、俺だったらこうするのにとか、俺らの時代はこうであったなどととかく口にしがちである。
しかしそんなことを言ってみたところで、相手は自分ではないし、そんな時代を生きたこともないので、ちんぷんかんぷんである。
特に自分のようにある程度実績がある場合は、たいへん陥りやすいことであり、技術面だけではなく、人間関係においても自分のエゴをおさえ、それをどう伝え、伝わるかと言うことを考えなくてはならないと思っている。





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ボクシングにおけるアカンタビリティ

2008-03-03 | Weblog
ボクシングを教えるにあたって、ロジカルに物事を説明し、それを表現することはは重要である。
しかし日本のアマチュアボクシングの指導者は、技術的なことはよく理解しているのだが、この表現力においては乏しいということを以前ブログで書いた。
よく指導者は選手に「考えろ」と言うが、これはコーチの無責任発言であると言える。
「考えろ」というのはたやすいことである。
しかしそうではなく「考えさせる」ためにヒントを与えたり、たとえを用いて表現し、理解させることが重要であり、そのため指導者はむしろ技術以外のことを勉強しなければならないのではないだろうか。
ボクシングに於いて感覚というのは重要である。
自分のボクシングはロジカルであるとよく言われるが、ボクシングはロジカルすぎても相手にはつたわりにくい。
例えばストレートやフックをうつというのは、力学的には説明できるが、それをどのタイミングでうてば一番いいかということは感覚の問題であり、その感覚を伝えるのは表現力である。
従って我々が論理的にボクシングをとらえ、それをどう説明するかと言うことを考え、示唆する表現力が必要である。
しかしどれだけの人間が、この表現力の必要性というものを感じているだろうか。たいていの場合は「自分で考えろ」とか「練習しろ」の一言でかたづけてしまう。
大切なのは、今自分が考えていること指導したいことを、選手にどう伝えるか、あるいはどうしたら伝わるかである。
そのどう伝えるかということを自分たちは論理的にとらえ、なるべく選手がわかりやすく納得いくようなかたちで指導し、練習させるのが自分たちの責任であると思っている。
従ってボクシングを指導することに於いて「哲学」「心理学」「語学」というのは重要である。
「哲学」は物事の本質を見極めるため「心理学」は相手の気持ちを知り選手のモチベーションを高めるためである。
そして特に語学は重要である。
話せなくてもいいから、たくさんの語学を研究することは必要である。
たとえば日本語では一つしか表現できないことばが英語ではたくさんあり、逆に英語の表現ではひとつしかないのに、日本語だといくつもあるとか物事を表現するには役に立つ。
「跳ぶ」という表現は日本語ではひとつであるが、英語では「jump」 「skip 」「leap」 「spring」とそれぞれのニュアンスがある。
(おそらくこの点からしても日本人は、感覚的なことをロジカルにとらえることがで苦手な民族であることがわかる)。
「ボクシングひとつにこんなことをやってられっか」と思うかもしれないが、ボクシングの歴史はスポーツの中でも最も古いスポーツであり、心技体だけではなく芸術性や知性を必要とするスポーツであると、教える側としても誇りを持っている。





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