「私たちが子どもの未来のためにできること」というヒラリー.ロダム.クリントンの書いたエッセイがある。
エッセイと言ってもタレントが書いた、身近なことに共感を覚えるというような中身のないエッセイではなく、彼女が弁護士として、ファーストレディとして、そして母親としての立場から、子どもをどう育て教育していくかと言うことが書かれている。
本の具体的な内容は、あまりにもいろんなことが書かれているので全部書ききれないが、この本のタイトル「一人の子どもを育てるには村中みんなの力が必要」は家族全員が健在で、社会全体が子ども達を十分に保護して、はじめて子どもが元気に育つのだという内容であるが、とそれは同時に「村」というのは、人間の目が行き届く範囲の場所であり、子どもを育てるというのは、行政や国だけの問題ではなく、社会で生きるひとりひとりの責任にかかっているということを、もっと重くうけとめろということではないだろうか。
このエッセイを読んでいてすごいなあと思ったのは、彼女が親の離婚についてふれ大人の立場がどうであっても、子どもに悪影響を与える場合が多く、はっきりと離婚はよくないと語っていることである。
おそらくこの複雑な社会に於いて離婚がよくないとそう言いきることはできないと思う。
ほとんどの人間は、あれかこれかの選択をし、親には親の事情もあると安っぽいヒューマニズムを持ち出そうとするが、しかしヒラリーははっきりと子どもが育っていくためには家族の絆というものが必要であるとし、その絆を支えるためにもまわりの協力も必要であると言う。
そしてさらに彼女は「結婚は一生つきそう誓いをたてることだったが、今は相手がいやになるまでだ」というようなことを言い、あきらかに子どもの視点で離婚否定し、家族を通して子どもは健全にそだてられると言うことをを主張している。
私は最初ヒラリーという人物があまり好きではなかった、なぜなら合理的で冷血というイメージをもっていたからだ。
しかしこの本を読んでいく中で、イメージが変わった単純かも知れないが、今彼女に持っている印象は一歩先を行きながら、常に大事な原点に帰ることのできる人である。
私自身の意見として、離婚はいいとも悪いとも言えない、そう言い切ることはできないであるが、しかし今離婚の問題にしても学校の問題にしても「子ども」というものをぬきにして語られることが多いのではないだろうか。
話は学校の話になるが、学校の問題になると「いやそんなことはない私は意見を言っている」という親もいると思うが、いいたいことなら誰にでも言える。
自分の子どものことしか考えていない、アホな親が最近増えているそうだが、時々そういう親が子どもについて語り、学校にめちゃめちゃなことを要求したりするが、たいていの場合それは子どもの要求したことではなく、親の要求することで、子どもの声が消されてしまっているのではないだろうか。
大切なのは自分の子どもが目立ったり、特別扱いしてもらうことではない、こどもがどう育つかと言うことを真剣に考え、子どもを守る義務と責任が大人にはあるということだ。
ヒラリーは「村」という言葉を使っているが、子どもの世界というのはある意味村のように小さな世界でもある。
その小さな世界に一歩踏み出す頃からグローバルな視点(英語教育やコンピューターの学習)を押しつけるのは無謀である。
まずこの小さな住人に、我々が教えることのできる当たり前のことを、教えることが必要なことであると思う。そういう点で我々は、彼ら彼女らのひとりひとりの教師となれるのだ。
世界がいかに変わろうと子どもの世界、視点というものは小さいものである。
その小さな世界で、彼ら彼女らは生きているのだと言うことを理解することが、彼ら彼女らの人権を守ることかもしれない。
エッセイと言ってもタレントが書いた、身近なことに共感を覚えるというような中身のないエッセイではなく、彼女が弁護士として、ファーストレディとして、そして母親としての立場から、子どもをどう育て教育していくかと言うことが書かれている。
本の具体的な内容は、あまりにもいろんなことが書かれているので全部書ききれないが、この本のタイトル「一人の子どもを育てるには村中みんなの力が必要」は家族全員が健在で、社会全体が子ども達を十分に保護して、はじめて子どもが元気に育つのだという内容であるが、とそれは同時に「村」というのは、人間の目が行き届く範囲の場所であり、子どもを育てるというのは、行政や国だけの問題ではなく、社会で生きるひとりひとりの責任にかかっているということを、もっと重くうけとめろということではないだろうか。
このエッセイを読んでいてすごいなあと思ったのは、彼女が親の離婚についてふれ大人の立場がどうであっても、子どもに悪影響を与える場合が多く、はっきりと離婚はよくないと語っていることである。
おそらくこの複雑な社会に於いて離婚がよくないとそう言いきることはできないと思う。
ほとんどの人間は、あれかこれかの選択をし、親には親の事情もあると安っぽいヒューマニズムを持ち出そうとするが、しかしヒラリーははっきりと子どもが育っていくためには家族の絆というものが必要であるとし、その絆を支えるためにもまわりの協力も必要であると言う。
そしてさらに彼女は「結婚は一生つきそう誓いをたてることだったが、今は相手がいやになるまでだ」というようなことを言い、あきらかに子どもの視点で離婚否定し、家族を通して子どもは健全にそだてられると言うことをを主張している。
私は最初ヒラリーという人物があまり好きではなかった、なぜなら合理的で冷血というイメージをもっていたからだ。
しかしこの本を読んでいく中で、イメージが変わった単純かも知れないが、今彼女に持っている印象は一歩先を行きながら、常に大事な原点に帰ることのできる人である。
私自身の意見として、離婚はいいとも悪いとも言えない、そう言い切ることはできないであるが、しかし今離婚の問題にしても学校の問題にしても「子ども」というものをぬきにして語られることが多いのではないだろうか。
話は学校の話になるが、学校の問題になると「いやそんなことはない私は意見を言っている」という親もいると思うが、いいたいことなら誰にでも言える。
自分の子どものことしか考えていない、アホな親が最近増えているそうだが、時々そういう親が子どもについて語り、学校にめちゃめちゃなことを要求したりするが、たいていの場合それは子どもの要求したことではなく、親の要求することで、子どもの声が消されてしまっているのではないだろうか。
大切なのは自分の子どもが目立ったり、特別扱いしてもらうことではない、こどもがどう育つかと言うことを真剣に考え、子どもを守る義務と責任が大人にはあるということだ。
ヒラリーは「村」という言葉を使っているが、子どもの世界というのはある意味村のように小さな世界でもある。
その小さな世界に一歩踏み出す頃からグローバルな視点(英語教育やコンピューターの学習)を押しつけるのは無謀である。
まずこの小さな住人に、我々が教えることのできる当たり前のことを、教えることが必要なことであると思う。そういう点で我々は、彼ら彼女らのひとりひとりの教師となれるのだ。
世界がいかに変わろうと子どもの世界、視点というものは小さいものである。
その小さな世界で、彼ら彼女らは生きているのだと言うことを理解することが、彼ら彼女らの人権を守ることかもしれない。