脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

大人はもっとおこるべし

2012-03-09 | Weblog
昔おこられた時よく大人は「お前のためを思っておこっているんだ」と言う。
しかし何か腑に落ちない、時にはげんこつを力いっぱい自分の頭にたたき落とす大人に対して、ほんまかよと思ったものである。
しかし私は子供をおこる時には、めったにそういうおこり方はしない。
確かによく考えれば子供のためになるのだが、しかしおこるときたいていは子供の理不尽ともいえる行為に不快感をおぼえておこってしまうので、おこるときは正直に自分の気持ちが不快であるから、こういうことをしたら人は不快になるのだというようなことを伝えている。
今公共のマナーが悪くなっているのは、大人が子供をおこらないからだという意見があるが、大いにそのことはある。
おそらくそういう公共のマナーを守れないのは、不快感をつたえる大人がいないからだ。
電車などの公共の場で騒いでいる子供を見かけることがあるが、時には大人だからと言う建前を捨てて、自分の不快感を率直に子供にぶつけることも必要ではないかと思っている。
今子供に慎重になりすぎて、安易に子供をおこれない、子供に気を使いすぎていて、世に中の常識など子供に伝えるべきことが十分に伝わっていない、子供の受容が足りないように思えて仕方がないのだが、そういうことは公共と言う場を通して学ぶことが多いのだが、我々はそのことを往々にして大人からおこられることで学ぶのではないだろうか。
子供の受容とは、当たり前だが子供が大人を受け入れるということで、教育心理学的には大人や教師の受容ということはよく言われるのだが、子供に関してはせいぜい幼児期からの発達段階で求められる程度であまり用いられることはないと思うのだが、実は私はこの受容することができないと、成長して大人にはなれない。
私が子供にたいして時には自分の不快感を伝えるのは、このことを通してどれだけ人が傷ついたか、そしてどれだけ不快に思ったかということを受け止めてほしいからで、お前のためにおこったんだではその気持ちが十分に伝わらないからである。
おそらく子供だけではなく、本当に人間関係をタイトなものにしたかったならば、それは大人であっても子供であっても受容しあうということは大事なことであると思う。
今そうかもしれないがよく我々の時代は頭ごなしにおこられたものである。
私は小さい時は問題児だったので、おやじをカーッとさせてどえらい目に合わされたが、感情的におこられてなぐられてもすみませんと言えるのは、悪いことをしたから当たり前なのだが、それはある意味、子供がその親を受容できているからだと思う。
いちいちおこることに理由をつけておこっていては、本当におこることはできない。
おそらくそういう大人の感情を受容することで、彼ら彼女らは成長し、大人になっていく。そしてこのことを通して相手の気持ちを理解し、英語でいうところのコモンセンスが磨かれていくのだと思っている。

だいぶ前ある学校でエセカウンセラーが暴れる子供に対して、親の愛情が足りないからさせるままにさせろというようなバカなアドヴァイスをしたらしい。
カウンセラーが言うので仕方なく、その通りにさせたのだが、しかしそんなことをさせてよくなるはずはない。結局このクラスは学級崩壊寸前まで行ったらしいが、ルソーが言うように子供は高貴な蛮族、その蛮族に好き勝手させるというのは結果は火を見るよりもあきらかである。
意外とカウンセラーの中には自分の問題を解決しきれず、そのため心理学の道を目指したという者も少なくはないのだが、そういう人のほとんどが、親との関係に原因を起因する人たちが多く、私の見てきた奴の中にもそういうタイプが何人かいて、何かと言えば愛情が足りないとか親の愛情を受けていないと受容することを強調するのだが、しかしそれはそうするほうが楽に解決できるからで、私の見てきた奴らはいまだに自分の問題が克服できない、だから人を見る時もそこに自分の経験を置いて考えてしまう、いつも解決法が同じ、はっきり言えば、そういう不十分な奴に安易にスクールカウンセラーと言う職を与えすぎたと思っている。
正直な話私はそういうたぐいのカウンセラーに期待はできない。
カウンセラーなんて言うのは、天から与えられた賜物を生かさなくてはできない仕事だと思っているので、少々訓練しても才能がなければつかえないが、そのほとんどが勘違いだからだ。
最近子供を地域で育てるということが問題になっているが、今や子供を育てるというのは、心理学よりも社会学的にとらえて考える必要がある。

オリーヴにはいろいろと個性的な子供たちが来ているが、彼ら彼女らと接する時、私は受容ということよりもむしろ、おこる時に子供にどう伝えるかということを問題にしている。
おこるというのは信頼関係を結ぶカギである、がしかしそれが十分に伝わらないとそこで関係は閉ざされてしまうことさえある。
おそらく今受容ということもそうであるが、そういう感情もひっくるめて子供をどうおこるか、子供にどう伝えるかと言うことを問題にし、研究しなければならないと思う。









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