脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ヨルシミ コンブ ヘヨ

2012-03-11 | Weblog
ブログでよく取り上げるがフットボール(サッカー)は日本のスポーツの中でも最も近代的である。
最近まで知らなかったが、サッカーの監督やコーチにはサッカー未経験者が結構いると聞いたが、サッカーが理論を重んじるスポーツであることを意味しているが、それは近代スポーツにおいては非常に重要なことだと思っている。
中にはサッカーと全然関係じゃねえと思うところから、その世界に入った人もいるそうだが、私が特に興味を持ったのはモウリーニョと言う監督である。
英語、フランス語、イタリア語など6か国語を話せるマルティリンガルだそうだが、彼の場合はサッカーを競技したが、しかしプロでの経験はなく、通訳からコーチ、そして現在2010年からレアルマドリードの監督に就任したわけであるが、彼のインタヴューを聞いていて非常におもしろいなあと思ったのは、指導者になるために英国に語学の勉強をしに行ったことである。
普通指導者になるのだったら戦術とか、技術面などを学ぶのが当たり前のことのように思えるのだが、しかし彼は指導者になるために語学を勉強しに行ったということをインタヴューで答えているのだ。
おそらくその言語は英語であると思うが、私の推測では彼が語学を学びに行ったのは、幅広く情報を集めること、そしてコミニケーション能力を広げるためだと思っているが、そのことが彼にとって人を指導する上では重要なことだったと思う。
よくブログでも書いているが、情報を集めるには英語と言う言語は決してかかすことができないし、これが読めるか読めないかで1000倍以上の差があるのだが、アマチュアボクシングが封建的で、世界的にたいした成績を残せないのは、英語などの語学に疎いからだと思う。
確かにボクシングやダイエットなどの情報などインターネットで英語で検索するだけでも、かなりの情報量を得ることができる。
時々ダイエットだけの情報でも聞かれて、教えてあげると感心されることがあるが、英語や第二外国語が読めると質問されたことや方法に幅が広がることは確かで、これをサッカーやほかのスポーツに置き換えても同じことが言えるのではないだろうか。

さらに言葉によるコミニケーションと言うのは非常に重要なことである。
最近スポーツ関係の本を立ち読みして思うことは、最近のスポーツ関係の本はかなり理屈がしっかりしていて理論的である。
そのことはサッカーだけではなく、それは他のスポーツにおいてもそうだと思うのだが、近代スポーツは理論化されているので、まず言葉を理解する能力を身につけること、特に教える人は日本語であっても言葉と言うものを理解し、言葉の幅を広げるだけでも指導に大きな差が出るのではないかと思うが、英語に疎い、さらに日本語すらもきちんと話せない指導者は、この学力重視の時代にはみじめだと思うのだが、そういう奴はこの世界には少なくはない。
もうサッカーなんか見ていてもわかるが、バカではスポーツを競技できない時代である。
多くの選手がヨーロッパなどの海外に向けて語学を勉強しているらしいし、大陸の合理主義からくるサッカーの戦術なんかは非常に論理的であるので、学問を理解する基礎的な力が要求されるわけで、これからのスポーツはバカではできないし、指導者も情報を集める力と、そして論理的に物事を考える能力を養うことができなければ通用しない。

日本の保守的なスポーツは、未だに固まって師匠みたいな奴から教えをこうという型で技術を習得するが、漫才師でもあるまいし、そういう関係をつくってハイハイと返事をするだけでは進歩がない。
私はこのスポーツで最も弊害だと思っているのが、やくざのような封建的なシステムである。
あのがんじがらめのルールは何だ、やくざでもあるまいし、判定の時、不利に見えても名前で勝ったとか、審判の印象が悪くなるというような問題発言が横行するのも信じられないが、関係者の中には、たいしたこともないのに人前ででかい声で注意する奴がいるが、こういう環境でグループに属していない、子飼い以外の競技者が自由にできるはずはないと思うが、これでは俺のけつもちは何組だと言っているのと変わりない。
時々人権を無視した行為に、むかついて何か言ってやろうと思うときがあるが、しかし言ってしまったら最後たぶんめちゃめちゃ言ってしまうと思うので、たぶん言わさないほうがいいと思うが、外国でボクシングを競技したことがある人間から見たら考えられないことが多く、こういうことが当たり前だと思っていることにかなり驚いている。

体育会のものの考え方人間関係は「かわいがる」「かわいがられる」の人間関係で、そこからはずれたら相手にされないよそ者である。
中にはこういう稚拙な人間関係が社会で通用すると考えているバカもいるが、こいつらの特長的な考え方はさっき言った「かわいがる」「かわいがれる」そして人の話を聞かない、質問されるのがこわいので、筋を通すことが正しいことだと思い、一方的に少ないボキャブラリーでまくしたてるのだが、こういう感覚とレヴェルではまともなミーティングなどできるはずはない。 
海外に目をむけて、もう少しスポーツする意義や人権などについてしっかり考えたら、これらのことは間違っている、おかしいと思うのだが、しかし語学に疎かったり論理的でないと、こういうことがおかしいと感じないのだろうが、雰囲気的に保守的なクラブは、中高生のクラブの延長のようなのりで、指導者が語学に疎く、論理的ではないと思っているが、意外とそういう奴が結構いるのではないか。
仲間内で集まって「あの人の言っていることは筋が通っている」レヴェルでは意味がない、情報収集が幅広くでき、きちんとした学問的な見解を持ち、それを伝え理解することができる力が必要だ。
今や何とかチャンピオンとかなんとか何位とか言うしょうむない肩書よりも、英語が話せるとかドイツ語が話せるとか言うランゲージアビリティーを持った人間のほうが価値がある。
そういう人間がいると情報収集がしっかりできるし、欧米社会は論理を重視するので、くだらない派閥をつくって封建的な社会をつくろうなんて思わない。少なくとも親分を中心に固まって、やくざのような組織をつくることに価値を見出すようなバカなことはしない。その点に於いて、平等な考え方を持つことができると思う。
特にうちのように目的が健康維持やダイエットの社会人が多いところは、ゲゼルシャフト型のコミュニティーなので、論理的であるということは非常に安心感を持たれる。
論理的に語るというのは、ダイエットの人に対して自分の知っているボクシングの技術を、とぼしいボキャブラリーでべらべらと得意がって話すのではなく、語学力や知力で集めた情報に基づいてそのニーズに答えるということで、たとえ何とかチャンピオンであっても何とか何位でも、そういう力がないと我々のような社会人の多い集団からみたら「だめだこりゃ」と見限られてしまうだろうが、まともに話せない奴がそんなくだらない肩書をかさにして偉そうにふるまえばなおさらのことである。
はっきり言って私の言っていることは理想ではない、現実である。
さらに言うならば語学ができると情報収集がひろくなり、多くのアドヴァンテージを持つことができるが、今は経験がなくても論理でカバーできる時代で、スポーツの在り方も変わってきていることは確かなことである。

正直同じような服を着て威圧感たっぷりに、固まっている奴らを見ると不快だ。
何が偉いのかわからないが、自分たちは特別だと勘違いしている。
こういう奴らの多くは国内では偉そうにできるが、しかし外国では今までの威勢はどこにいったのだというぐらいおとなしい。
外国は自分たちよりも大きい人間が多く、得意のおどしや恫喝、そしていざとなったらあばれるというやり方も通用しないどころか、言葉もわからないので不安なのだろうが、その国内でやっている態度を外国でも出せたら、少しはアドヴァンテージになるのだが、やくざのようなやり方が通用するのは日本だけ、もう少し言葉をおぼえて広い世界を見る必要がある。

他の国と比べたらわかるが、日本人は練習させすぎ、体育会に入れば、ほかのことをする自由がない。
これがスポーツバカと言われる原因だと思うが、こういう奴がとてつもなく多い。
これからのスポーツは言葉を理解したり、論理的にものごとを理解することも必要であるのだから、新しい時代にむけてもう少し、学力をあげるために勉強をさせればいい。おそらくこれからはたとえスポーツであっても学力をつけなくては先細りする一方で、そういうことに関心を持たないで、競技をさせる指導者は子供に間違いなく悪影響とも言える。














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