脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

seek ye first the righteousness; and all these things shall be added unto you.

2016-07-25 | Weblog

この前インターネットの記事にマナーについて述べられていた。マナーは自分がどうかということではなく相手がどうかということだ、それはoxfordの辞書にそう書いてあると言っていたが、私もだいぶ前にコモンセンスについて述べていたが、おぼえている人はわかるであろうがそれはまったく同じこと、おまけにoxfordを参照にしているのも同じである。だから学校教育と言う場において教室に髪を派手にに染めた子供がいるのは一般的には好ましいこととは言えないと思う。一般的にと言うのはそれが高校や中学では往々にして校則違反であるからだ。そういう行為をあえてするのはは教師側から見れば不快とも言える、親は何を考えているのかはわからないが、しかしそういう時期から目立つとかかっこいいとか中身のない個性を表現するのは小さいころからマナー違反を教えているのと同じ、DQNはなぜアホだと思われるのにああいう恰好をするのかわからないが、せめて子供には常識的な髪型やかっこうをさせるのが人として正しい教育ではないかと思う。

私自身クラブを安心させる場として道理が7で義理が3のバランスで行動しているがこのバランスは群れを導いていく上では大事なことだ。最近は義理と言う言葉は任侠映画以外では語られなくなったが、しかし人間関係においては大事な事柄である。国語辞書には義理についてこう書かれている。これはあくまで一般的に我々がつかう言葉としてであるが、1社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと。道義。「―が悪い」「君に礼を言われる―はない」「―をわきまえる」2つきあい上しかたなしにする行為。「―で参加する」と書いてあったが、言葉をかえれば義理と言うのは恩に報いる行為と言ってもいいだろうが特に東洋の世界は相互関係においてこの義理と言う関係でつながり人間関係をタイトなものにしていると言っても過言ではないだろう。クラブでおっさんたちがせっかくトレーナーに教えてもらっているのにうまくならなくちゃあわるいと感じるのもトレーナーに義理を感じるからで、彼ら彼女らがきてくれているのだから楽しくトレーニングしてもらいたいと感じるのも然りである。しかしコミュニティは義理だけでは成長しないし正しいコミュニティとは言えない。人間が集まるのだからそこに正しさの基準がなければ群れは間違った方向に向かうだろう。義理という言葉はそれ自体はいい言葉であるが、しかし人間は義理だけで行動すると正しさからはずれることもある。はっきり言って体育会と言う集団は欧米に比べてへんてこりんなルールがある。これって明らかに女性差別じゃないのかというのもあっておどろいているのだが、水をトレーニング中に飲むようになったのも最近であるが、こんなことはもう何十年も前から欧米では当たり前のようにやっていることである。私などはトレーニング中にドクターペッパーを飲んでいたが、こういうことひとつにしても日本にはまだまだ何を基準にしているのかはわからないが、あしき習慣と言うものが存在する。そういうものが存在する背景には親玉たちには何も言えないいびつな義理関係がそこに存在するからだ。日本のスポーツ界特にボクシングのようなマイナースポーツは考え方が徳川幕府以下だと思っている。道理と言うのは人間が行う正しい筋道と書いてあったが、その正しい筋道からはずれないためにも指導者はスポーツだけではなく教養をつむことは非常に重要なことで、特に我々のような社会人が集まる集団はある程度のレベルが求められる。筋道を通すというのは何も勉強していないような奴がただ言いたいことを言わせてもらえるからと言うことではなく、この時代はしっかりと先のことを見据えて何が正しいかどうあるべきかということを考え選び取っていくことだ。正しい道理は今の時代はきちんと勉強してアンテナをはらなくては通すことはできないと考えている。語学が全然わかりません日本語もあやういです、本読みませんと言うような人間が今の時代にまともに道理など通すことなどできないと思っているが、実際にアホが導く集団は体育会のルールがすべてだと思っているがしかしどこかズレている。はっきり言って教育上よくない。群れにとって本当に何が正しいか平等と言えるのかと言ったことをしっかりと学問を基準にして選びとって行くことが大事だ。

ヘブライ語で義をツエダカー(正確にはツエダーカー)と言う。英語ではjustice少し形式ばった言葉でrighteousnessと訳されているが、正確には日本語で言うところの義と正義と言う言葉がかさなりあった言葉である。ツエダカーと言う言葉はもともとは聖書の言葉で神の正しさと理解されている。キリスト教ではどちらかと言うと正義よりも愛と言う言葉がよく語られているが、しかしold testamentで語られているのは神の正義で、その正しさゆえに神は人間を罰することもある。old testamentと言うのはそのツエダカーが終始一貫して語られているのだが、私はユダヤ人が優秀な民族であると言われているのはツエダカーが彼ら彼女らの行動の基準あるいは道しるべとなったからであり、ツエダカーは私的には義理3道理7と言う理想の言葉だ。

 

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