日本には変な法律が結構ある。その中に「計量法」というものがある。人類が世界各地で個別の文化、文明を育んできた。異なる習慣や生活様式や風俗は、気候風土に歴史が作り上げたものである。計量もその例外ではない。
日本では、1966年に「計量法」が制定された。商取引や様々な測定に差違が生じないようにとするのが目的であった。それは大変結構なことである。異なる単位の乱用は社会に影響を及ぼすからである。
長さはキロ、重さはキログラム、面積は平方メートル、体積はキログラムと言った具合に、あらゆる計量されるものの単位を、国家が決めたのである。
ところがこの法律は、使用単位を推奨したばかりではなく、他の単位の使用を禁止したのである。非法定単位の使用禁止を行ったのである。このおかげで、日本固有の文化のみならず、海外の文化の受け入れもハードルが高くなった。
国内では、土地を買うにしても相変わらず、坪単位の評価の法が解りやすい。農地もヘクタールで表現されるが、町歩と同じなので、誰もが町歩で理解している。着物は、メートルでは風情がない。建物も尺や間の表現の方が日本らしい。真珠の国際規格は、モンメ(匁)である。
アメリカ野球は球速をマイルで表現するが、許可制になっている放送局では、瞬時にいちいちキロに訂正しアナウンスしている。ゴルフはヤード表現をしながらも、メートルに直すのに苦労している。どうしてそのまま表現できないのだろう。温暖で化でパニックになる映画で、温度がカ氏表現を知らずに誤訳して問題になったことがある。
アメリカの乳牛の飼料計算をするのに、大変困った経験がある。重さをポンドで表現するが時にはオンスになる、水はガロンやブッシェルであるが、米英で異なる。微量要素はキログラムだったり%表現になったりする。時折すべてキログラムで表現する。勿論イギリスはキログラム表現である。要するにバラバラなのである。
こうしたことも困りものであるが、表現として幅があり元気で活発である。日本のように国家が決めた単位の表現を禁止すると、矮小な感じになってしまう。尺貫法を復活しろと言うのではないが、もっと自由に使用を認めさせるべきではないだろうか。40年以上経っても、尺貫法は厳然とあちこちで生きている。それには歴史的意味合いがあるからに他ならないからである。
これは、すばらしい単位だと思った。素人でも、充分想像できる単位だ。個人差(誤差)と獲物の行動範囲(誤差)が良い相乗効果となり正確な深さを表す。
10年間ほどヨットに乗ったが、早さはノットで表現し、これを実感するのに時間がかかった。自分としてはメートル法が馴染んでいるが船乗りは妥協してくれなかった。
そんな訳で、単位は民族によって異なる言語みたいなものだと思っている。
そういう意味で国際語は国際単位系【時間 (s)、長さ (m)、質量 (kg)、電流 (A)、熱力学温度 (K)、物質量 (mol)、光度 (cd)】が相当するのかな。
さらに電磁気を表現するのにCGS単位系、人類が月に到着すると重力単位系が必要になってくるようだ。ウーン、こうなるともう複雑になっちゃう。