そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

ほんの少しアイヌの歴史を知っていただければ

2020-08-09 | 先住民族

本ブログは開設してもう10年になる。昨日今日へのアクセスが当然多いが、何かの目的で検索して呼ばれる方も少なくないようで、何度も見られるのが、北海道の150年はそのままアイヌ抑圧の歴史であるという、2年前の記事がよく読まれている。
私たちは、北海道アイヌの歴史を私たちは全く学んでこなかった。アイヌ人は蝦夷(蝦夷)と言われ、江戸時代頃には関東周辺にまで住んでいたが、明治維新後の150年に限ってアイヌは抑圧されていたわけではない。
今回、釧路アイヌ懇話会主催による、「道東アイヌ民族」と題した3回の渡る文化講座に
アイヌの蜂起には、〇コシャマインの戦い(1457年~1525年)、〇シャクシャインの戦い(1669年)、〇クナシリ・メナシの戦い(1789年)があり、三大蜂起と言われている。今回は道東のアイヌということで、クナシリ・メンシの戦いについての学習であった。前の二つの戦いは松前藩に近く、民族としての圧政に対する蜂起の戦いであった。
江戸幕府末期のクナシリ・メンシの戦いは、過酷な労働をアイヌが幕府に訴えていたが、それに耐えかねて和人71名を殺害している。クナシリ(国後島)22人、メナシ(羅臼、標津町辺り)49人を殺害した。これに対し松前藩は、クナシリ14人、メナシ23人の計37人を処刑している。
これに対し、(上図の左から)アッケシのイコトイ、クナシリのツキノエ、ノッカマップのションコの首長が、松前の処分を容認した。お味方アイヌと呼ばれた酋長たちは、戦力の差を知っていたことと、南下するロシアや中国などとの交易を行っていて、権益を持っていたこともある。蜂起した若者たちは裏切りに見えたことであろう。ロシアとの交易でロシア正教の影響を恐れ、松前藩は宗門改めまでやっている。
クナシリ・メンシの戦いはおよそ150年後の1930年に起こった、日本統治下の台湾の霧社事件に酷似している。お味方アイヌは、松前藩家老の蠣崎波響の絵、夷酋列像の12人の長の、中国ロシアの豪華な衣装をまとった絵で高く評価されている。
道東アイヌの制圧は、明治維新後の周辺諸国への進出のモデルになったともいえる。先住民の言葉や名前や文化、文明を奪い同化政策を日本政府は行った。20年前の国連の人権宣言を受けて、台湾でもオーストラリアでも先住民族への謝罪と再評価がなされている。日本もオリンピックに向けて、ようやくアイヌを先住民族と評価し、ウポポイなどを作り開会式のセレモニーにも入れた。しかし、世界には中国のように先住民族、少数民族の同化政策、人権蹂躙が間断なく行われている。国内問題と中国政府は少数民族の人権など国外からの抗議を、受け付けようとはしない。日本は抗議する前に、自国の先住民族の歴史を教育のスケジュールに乗せるべきである。純日本料理のような昆布の歴史や、北前船寄港地が栄えた日本海などの存在と背景を、しっかりしておくべきである。
文字を持たなかった民族の歴史は脆く弱く儚い。上記の歴史、反乱内容も和人の一方的なものでしかない。
コメント (4)
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