半透明記録

もやもや日記

『動物農場』

2008年10月28日 | 読書日記ー英米
ジョージ・オーウェル 高畠文夫訳(角川文庫)


《あらすじ》
「荘園農場」のジョーンズ氏が眠った後、農場の建物のそこらじゅうから大納屋へと動物たちが集まった。目的はみんなの尊敬を集めている中白種の豚 メージャー爺さんの夢の話を聞くこと。爺さんの驚くべき話を聞いて衝撃を受けた動物たちは、ついに革命を起こし、農場からジョーンズ氏を追い出し、「荘園農場」あらため「動物農場」を自力で切り盛りしてゆく。ここにはじめて動物たちによる平等で輝かしい希望に満ちた社会が訪れたかに見えたが――。

《この一文》
“丘の中腹を見下ろしているクローバーの目は、涙でいっぱいだった。もし彼女が、自分の思いを口に出すことができたとしたら、それは、次のような言葉となっていたであろう。「今から何年か前に、わたしたちが人間たちを打ち破ろうといっしょうけんめいに頑張っていたとき、わたしたちは、けっしてこんな状態を目ざしていたのではなかったんだわ。メージャー爺さんが、わたしたちを奮起させ、反乱を思い立たせてくれたあの晩、わたしたちが心に描いていたのは、けっして、こんな恐ろしい、むごたらしい場面ではなかったはずよ。もしわたしが、自分で未来像というものを抱いていたとしたら、それは、動物たちが飢えと鞭から解放され、みんなが平等で、おのおのが自分の能力に応じて働き、メージャー爺さんの演説のあったあの晩、ひとかえりのみなし児のアヒルのひなたちを、わたしが前脚で守ってやったように、強いものが弱いものを守ってやる、といった動物社会の像だった。ところが、現実は、それとはおよそ正反対で――なぜだか、わたしにはわからないんだけれど――」  ”



1984年』を読んだ時、私はそれがしばしば言われているような単純な「反共小説」とだけ読むことは不可能だと思ったのですが、スターリン独裁下のソビエトを批判するために書かれたと言われるこの『動物農場』も、単にそれだけでは済まない普遍性を備えていると感じます。これは多分、私でなくとも、読んでみれば自ずと感じられることではないかと思います。
たとえば、本書のあとに収められた開高健氏による「24金の率直――オーウェル瞥見」でも、ここにはあらゆる時代と思想を超えうる、ある完璧な定理が実現されていると述べられています。さらに開高氏によると、

  この作品は左であれ、右であれを問うことなく、ある現実に
 たいする痛烈な証言であり、予言である。コミュニズムであれ、
 ナチズムであれ、民族主義であれ、さては宗教革命であれ、い
 っさいの革命、または理想、または信仰のたどる命運の、その
 本質についての、悲惨で透明な凝視である。理想は追求されね
 ばならず、追求されるだろうが、反対物を排除した瞬間から、
 着実に、確実に、潮のように避けようなく変質がはじまる。


と、『動物農場』の核心でもあり、同時に人類がその歴史上でひたすら繰り返している「権力構造」がもたらすひとつの形式について的確に説明がされてあり、私もこれに関しては全面的に納得しました。私もそう思う。

問題は、我々はこれに対していったいどうしたらいいのかということだ。問題は、人間の愚かさに対して我々はいったいどうしたらいいのかということだ。いまだ愚かなままで、しかしそれでもどこかへ向かわねばならない。支配、不寛容、虐待。いずれにせよここへ行き着いてしまう、この道を外れようとするにはあまりにも大きな抵抗感。誰もが平等で幸福な世界など、まるで夢物語だ。

いつまでもいつまでも、ひたすらに煽動され、いいように支配される動物たち。黙って付き従う彼等の(我等の)、辛く悲しいだけに終わる多くの生涯は、唯一遠い未来への希望にのみ支えられている。そこには悲しみと苦痛以外の何ものをも見いだすことはできないけれど、ささやかな希望とか理想といったものが、ずっと人類をしぶとく走らせてきて、これからもそうだろうと私は思う。途中でいくたびも壮大な過ちを繰り返してはいるけれど、捨て去るには美し過ぎる希望や理想があるならば、それは捨て去るべきではないと私は思う。暗闇の中でただひとつ輝くものがあって、たとえそれが幻に過ぎないとしても、それなしでいったい進むことなどできるだろうか。一歩も動かず、その場にじっと留まるという選択肢もあるだろう。でも、ここを心細いほどの暗闇だと感じ、本物の光を見たいと願うなら、ちっぽけなかりそめの明かりでも頼りにして這っていかねばなるまい。ただ、自分と同じように小さな明かりを掲げる別の誰かに遭遇したとき、その色の違いによって殴り合わずに、なんとか話し合って、道を譲り合って進むってことは、難しいんだろうなあ。一時的な、戦略的な和解ではなく、真に、心から理解しあうなどという世界は、今のところ私には想像がつかない。恐怖におびえ、震えながら、騙し合い、罵り合い、掴み合い、他者を引きずりおろし、蹴落としながら、実はなんの知恵も展望もなく、ただ漫然となんとなく日々を暮らす人々の世界なら想像できる。そんなひどいことばかりではない(と信じたい)が、でも確かにこんなところのあるだろう、これが現代の現実の世界で、私もその一端を担っているという自覚がある。

少しの違いをも許すことのできない私たち。
自分の正しさを証明するために、あるいは自分の利益を守るために相手をぶちのめさずにはいられない私たち。
一方で、よく考えてみることもなしに、簡単に到底ありそうもないうまい話を信用してしまう私たち。
少なくともこの点においては、私たちは誰もが実によく似ている。
似ているからといって、分かりあえるものでもないんだな。どちらかと言うと、似ているからこそ分かりあえないのかもしれない。気持ちが沈んできてしまうなあ。でもまあ、私はまず自分の愚かさをもうちょっと改善するべきだな。話はそれからだ。


ジョージ・オーウェルによる『カタロニア讃歌』もそのうち読みます。



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