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2006年07月18日 | 夢の記録
(また「美術学校」の夢を見た。こんなに続けて同じような設定の夢を見るのは生まれてはじめてのことである。私はよほどこの問題を重要視しているに違いない。実際にそのとおりであることを自覚はしているのだが。夢占いも必要ないほどにわかりやすい私の夢は、目が覚めている私にとってとても印象的で反省を促すものではあるが、その展開は意外性に乏しく面白味がなくなったようにも思える。まあ、スペクタクルな夢は別口で見たらよいのかもしれないけれど。でも、夢を選んで見ることはなかなかに難しい。)



*****************


 放課後の講堂に残って、私はひとりで作業をしていた。とても焦っているのだが、思うようにはかどらない。
 そこへ女の先生がやってきて、黒板に白いチョークで三つの枠の中に可愛らしい小さな男の子と女の子が遊んでいる絵をお描きになる。黒い画面がどんどん白く埋められてゆく。私は目を離すことができなかった。
 女の先生が猛然と描いておられるところを見ていると、別の男の先生も講堂へやってきた。その先生は私の席まで歩いてきて、
「ああ、君はあの作品の……」とおっしゃった。私は先日提出した短い連作アニメーションの出来のことを思い出して、とても恥ずかしくなる。しかし、先生は別に怒っても呆れてもいないようだ。ただ、私個人と作品とをセットにして覚えているというだけなのだと思う。この男の先生は妙に迫力のある人なので、私はひそかに恐れていたのだが、私が思っていたようには恐ろしい人でないことが今になって分かった。アニメーションに関する色々な面白い話を、とても朗らかなようすで話してくださった。

 そうこうするうちに、女の先生の黒板の絵が仕上がったようだ。女の先生が講堂の左手にあるスイッチを押すと、白いチョークで描かれた三つの絵が、それぞれに動き出した。黒板だと思っていた黒い画面は、今はスクリーンとなっている。先生が描いた部分だけが時々白くぴかぴかと光りながら、終わることなく男の子と女の子が走ったり笑ったりしている。私はすっかり驚いてしまった。男の先生は喜んで、拍手を送っていた。
 「どうして、いつの間にお描きになったんですか。こんなに長いアニメーションになるだなんて、私はちっとも思わなかったのですけれど」
 女の先生は、意外そうに私の顔をご覧になり、
 「だって、前から少しずつ描きためておいたんですよ。さっきようやく仕上がったのです」
 そうだったのか。私は、本当に恥ずかしくなった。



 前期課程が終わって成績表をもらった。はじめてもらう成績表の見方が分からなかった。表の上のほうに「5」と書かれていて、その下にも細かく数字が続いていた。とても息苦しい。
 一番最後の段に「35/150」と書かれてあった。私は150点満点のうち35点だったらしい。だいたい予想していた通りだったので、驚きはしなかった。私の後ろに座っていた二人は、一人は髪の長い女の子で、もう一人は誰だかわからなかったが、どちらかが自分は25点だったと嘆いていた。私はその人よりも少しだけ点が上だったことがわかったが、何の慰めにもならなかった。どうしてよいのやらさっぱりわからなかった。
 成績表の右側の欄には、私の作品に対するアンケート結果のようなものが示してある。同じクラスの学生の意見がいくつか、その学生の筆跡そのままに複写されている。
 「線に勢いがない。動きもない」
 「フランス語が鼻につく」
 「話に展開がない」
 誰の意見なのか判別できるものもあったが、どれも的確だった。私はいよいよ焦りはじめる。どうしたらいいんだろう。どうしたら。どうしたらいいんだろう。どうしたら………。





*****************


(「フランス語が鼻につく」というのはどういうことなのか、起きてから考えると少し妙な気もするが、夢のなかではとても納得していた。多分、私の半端なヨーロッパかぶれのようなところを、自分でも苦々しく思うところがあるのだろう。焦りに焦った私は、このあと池袋の地下の薄明るい女子トイレで女子高生にかつあげされ、暴行を受けた。ぼろぼろになった。ここからはもう関係のない次の夢へと移行しかけていたのだろうが、トイレの床にぶっ倒れるところで目が覚めてしまった。
 目覚めて一瞬は気持ちが落ち込んだような気もしたが、夢のなかでもう十分に焦っていたので、それ以上焦ることもないだろうとも思った。自分に足りないものが何なのかは夢で数え上げたので、起きている間はそれに対処するだけでいい。夢を見ているときとは違い、起きている私には少なくとも「どうしたいか」くらいはわかっているので大丈夫なはずだ。
 二重生活というものに憧れた私だが、思っていたのとは違う形ではあるがこれも二重生活かもしれないと思う。)

『バラバ』 再読

2006年07月16日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ラーゲルクヴィスト作 尾崎義訳(岩波文庫)

《あらすじ》

ゴルゴタの丘で十字架にかけられたイエスをじっと見守る一人の男があった。その名はバラバ。死刑の宣告を受けながらイエス処刑の身代わりに釈放された極悪人。現代スウェーデン文学の巨匠ラーゲルクヴィスト(1891-1974)は、人も神をも信じない魂の遍歴を通して、キリストによる救い、信仰と迷いの意味をつきとめようとする。


《この一文》

” --これは不運な人間なんだ、と彼はいった。そしてわれわれにはこの男を裁く権利はない。われわれ自身欠点だらけであるが、それでもなお主がわれわれを憐れみ給うたことは、それはわれわれの手柄ではないのだ。神をもっていないからといってその人間を裁く権利は、われわれにはない。    ”



もう10回くらいは読み返している、いや、まだ10回と言うべきかもしれませんが、『バラバ』を再び読みました。これまではこの物語の怒濤の勢いに身をまかせ一息に全力疾走で読み進めていたのですが、今回は一語一語を確実に追うゆっくりとした読書を自らに課すことにしました。少々時間がかかりましたが、その甲斐は十分にありました。今までは走り過ぎていて、きちんと理解していなかった点に気が付くことができました。よかった。

さて、私はこの『バラバ』の記事は1年半くらい前にも書いています(全然参考になりませんが「こちら」です)。それを読み返してみると、あまりにあっさりとした書きっぷりに驚きを隠せませんでした。ほとんど「あらすじ」しか分かりません。ほかに書きようがいくらでもあっただろうに……情けないことです。それにしても最も印象的な一文の引用が今回も前回も同じ箇所であったのは、なんとなく意外でした。印象的な「場面」ということならば、他の場面のほうが印象的だと常々思っている私ですが、「一文」ということになるといつもこれを選んでしまうからには、きっとこの文章には何か重要な問題が表されているに違いないと思います。問題点が多い、というのがラーゲルクヴィストの最大の魅力なのですが、短い物語の中には、驚く程多くの、おそらくはどれも非常に重大な問題が提起されているのです。


バラバはキリストの代わりに赦免された極悪人です。母親の世界に対する呪いと憎悪のうちに産み落とされた彼は、あらゆることに無関心で、人と関わらず、何も信じたりはしません。その彼が、自分の代わりに磔刑に処される人物の死の瞬間に起こった異常な光景を目撃することで変わってしまいます。ありえないことが起きそれを見てしまったことで、彼は迷い始めます。それまでは当たり前と思い、無関心でいることができた彼を取り巻く現実というものが揺らいでしまったようです。

今回あらためて気がついたことは、私はこの物語の登場人物について誤解をしていたところもあったということです。というわけで、バラバの関わる人物は少ないですが、その人たちについて改めてまとめてみることにします。彼らの存在はバラバにとってどういう意味を持っていたのでしょうか。

【クリストス・イエースース】バラバの代わりに処刑された男。バラバはどうしてもその男のことが好きになれなかったが、その男の死の瞬間にあたりが暗闇に包まれたのを目撃してしまう。救世主と呼ばれたその男は「人を愛せよ」と言う教えを広めていた。バラバにはその教えについてもまったく理解できない。

【ふとっちょ女】盗賊としてのバラバを愛した女。死を免れて帰ってきたバラバを世話するが、すっかり変わってしまった彼の姿を心から悲しむ。バラバがこの女を愛することは決してなかった。

【赤毛の大男】キリストを師とし、故郷ガリラヤを遠く離れたことを嘆きつつも心から信じている師に付いてきた純朴な男。救い主の代わりに赦免されたバラバを許さないキリスト教徒のなかでほとんど唯一バラバに対して差別も非難もせずに対話することができた人。

【兎唇女】バラバがかつて足を折り動けないでいた時に、バラバによって身も心も利用された女。そしておそらくその為に、胎内の子とともに呪いを受け、故郷から放り出されることになった。子は生まれることなく死に、バラバとも久しく会っていなかったが、再会したころには彼女は例の救世主を信仰するようになっていた。

【甦った男】キリストの奇跡によって死から甦った男。キリストの教えや奇跡を信じられず、何よりも死を恐れているバラバが、愛餐をともにすることになる人物。恐ろしく空虚な目をしている。

【サハク】バラバが年老いてから奴隷として鉱山で働いていたころ、ひとつの鉄鎖で結びつけられていたアルメニア人の奴隷。キリスト信者で、バラバが実際に救い主を見たことがあることに感激し、バラバの奴隷鑑札に自らのと同じように救い主の名をきざみつけた。長い間バラバと同じ鎖で結ばれていたことにより、二人はまるで一人のように常に一緒に行動することになる。

【ローマ総督】バラバとサハクがキリスト信者であることを聞き、二人を呼び立てて彼らが「神のものであるのか? それとも国家のものであるのか?」と問いただす。非常に現実的、実際的で、厳しい統治を行うが自身はわりと気さくな人物。ローマへと引き上げる際にも、信仰がもたらす死よりもそれを捨てることで生き延びることを選んだバラバを連れてゆくことにした。


まとめてみると、バラバには人を愛したり信じたりする、あるいは神を信じたりきっぱりと否定する機会は彼の前にあらわれる登場人物たちによって何度かもたらされたという気がします。しかし、その度ごとに彼はどうしても決着をつけることができません。絶望的に孤独な人間として生き続けます。それは、彼には何事も信じるということができなかったからでしょうか。彼を通り過ぎて行った人たちのように何かを信じることができたならという憧れよりも、どうしてなのかという疑念の方が大きかったということでしょうか。疑いつづけるというのは、たしかに恐ろしく孤独な作業です。何かを心から信じるということはその存在を確信するということでしょうから、少なくとも自分のほかに別の対象を持ち、そのことで孤独はある程度解消されるでしょうが、すべてを疑うとしたらそういったよりどころを一切持つことができないということになりましょう。実に不安で孤独なことです。

今回もある場面にさしかかると私の目からは涙が流れ出しましたが、どうしてそうなるのか今もよく分かりません。疑いつづけたバラバが自らの孤独を初めて自覚するそのときに、私は私自身の姿と、そしておそらく非常な努力でもってこの物語を編み出した作者の姿をも見出しているのかもしれません。疑うことは辛いことではありますが、どうしてもそうしなければならないとしたら、それにもきっと意味があるはずだというメッセージを感じます。このことが、バラバのように徹底的に全てを信じられないわけではありませんが、何を信じたらよいのかまったくわからずに呆然とするしかなかった私という人間を変えたと思います。あらゆることを疑って、そのために孤独に陥るかもしれない人生に価値があるのかないのかを決めるのは自分自身ではないのだということを理解したように思うのです。

そしてまた、さまざまなことを疑いながらも、純粋に素朴になにかを信じられる魂への憧れが私のなかにも確かに存在することにも気が付きました。私もあることを信じています。無力感に押しひしがれて、なかなかそれを認めることはできませんでしたけれども。そしてやはりそれは神の名を持たないものなのですけれども、心には確かに火が燃えて、私はもう絶望しなくともよいのです。
ただし、兎唇女やサハク、赤毛のガリラヤ人のように「そのために生きる」ことの美しさに私は心を打たれましたが、「そのために命まで失わなければならなかった」ことに対しては、まだどうしても悲しみと不条理を感じて仕方がありません。
よく考えてみると、誰からどのように否定されたとしても、自らの信念を命さえ投げ出すほどに貫き通すというのも、また孤独なことのように思えてきます。ただ、全てを疑うのに比べて、こちらの場合には少なくともそのことを信じている本人にとっての心の平安がもたらされうるかもしれません。しかし仮にそうだとしても、素朴に信仰する人々の死には、彼らが信じた救い主の死の瞬間に起こったような奇跡も感動もともないません。誰にも気付かれず、ただ死んでゆくだけです。でも、そのように終わる人生の価値を判断することもまた我々にはできないのかもしれません。心から信じてしまっていることを、そのために生きているそのことを否定してはとても生きられないと考える人がいたとして、それが正しいとかそうでないとかいうことを誰に断定できるでしょうか。


読めば読む程、人間を救うものは必ずしも「神」ではないと思えてきました。と言って、私は決して「神」を信じている人を否定するものでもありません。上に引用したのは、赤毛の男の発言なのですが、彼の言うのとは逆に「自分が神をもっていないという理由で、もっている人を裁く権利は、私にはない」のです。要するに、どのような立場であっても、他人の信念を傷つけるようなことをする権利は誰にもありません。「みんなが同じことを信じている」ということよりも「自分はこのことを信じている」ということのほうが重要ではないでしょうか。とても個人的な問題であるはずなのに、自分の信じることを他人が信じないからといって争ったり虐げたりするのは、本当に悲しく哀れなことです。いつか、誰を否定しなくとも、誰に否定されなくとも何かを信じていられる日が来るでしょうか。そのためにはどうしたらよいのでしょうか。



うまくまとめて、少しは成長したことを証明したかったのですが、まだまだ力が及ばないようです。もっと色々なことを考えたつもりでしたが、うまく書けませんでしたね。






『ロシア民話集(上)』

2006年07月14日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
アファナーシエフ 中村喜和編訳(岩波文庫)

《内容》
ロシアのグリムと称えられる民俗学者アファナーシエフ(1826-71)編纂の民話集からえりすぐりの78篇をおおくりする。イワンのばかとその兄弟、蛙の王子、火の鳥や灰色狼など、ロシア民話におなじみの人物・動物はみなここに登場する。ロマン・ヤコブソンの解説「ロシアの昔話について」を付載。(全2冊)


《この一文》
” 四人がそろって旅に出た。どれほど旅をつづけたことだろう、やがて四人は昼なお暗い森にさしかかった。森の中には鶏の足の上に小さな小屋が立ち、たえずぐるぐるまわっていた。イワシコはこう言った。
 「小屋よ、小屋よ。森に背をむけ、こちらを前にしてとまれ」
   --「熊の子、ひげの勇士、山の勇士、樫の勇士」より ”


ストルガツキイの『月曜日は土曜日にはじまる』のシリーズを読んだとき、この《鶏の足の上に立つ小屋》にはじめて出くわしました。それから井戸から水を汲み上げると桶の中に泳いでいる《人間の言葉を話すカワカマス》にも。
私はロシアの民話をほとんど読んだことがなかったので、それらの本当の面白さが分かっていませんでしたが、今ふたたび『月曜日~』を読み返したらきっともっと面白いと思えるに違いありません。


さて、民話というのはどこの国のものでもある程度は突拍子もない展開になるのかもしれませんが、私はこのロシア民話集を読んでみて大変に驚かされました。まったく先が読めません……。そして、登場人物があまりに強烈すぎます。面白くて、面白くて仕方がありませんでした。なんてシュールな話ばかりなんだろう。さすがロシア。

上に引用したのは、私が上巻のなかでもっとも気に入ったお話のひとつです。主人公のイワシコは、お父さんが「熊」(森に住んでいて、村から娘さんたちがやってくるとお粥をふるまってくれる。でもお粥を食べなかった娘は強制的に嫁にならなければならないらしい)でお母さんは「蕪」(子供のいないおじいさんとおばあさんの家のかまどの中で突然人間の女の子になった。熊の家でお粥を食べなかったので、やむなく熊と暮らす羽目になった)です。そこからしてもう普通じゃありません。剛力の熊の子イワシコは、力が強過ぎて村の子供と遊ぶと大惨事を引き起こしてしまうので、村から追い出されます。そして旅の途中で出会った三人の勇士と《鶏の足の上に立つ小屋》へと辿り着きます。

《鶏の足の上に立つ小屋》というのは、他の物語にもよく登場するので、ロシアではかなり一般的なものとされているのかもしれないと思いました。その小屋の中には大抵は《ヤガーばあさん》と呼ばれる老女(魔女らしい)がいることになっているようです。ストルガツキイの『月曜日~』のなかでも、この《鶏の足の上に立つ小屋》と呼ばれる建物には管理人のおばあさんがいました。そういうものだったんですねえ。
ところで、この《ヤガーばあさん》が結構怖い。《骨の一本足のヤガーばあさん》は、鉄の臼にまたがり、鉄の杵を漕いで現れます。登場人物は大抵はこの《ヤガーばあさん》にめった打ちにされます。怖いですねー。でも、ごく稀にすごく親切なこともあって、それはそれで怖いような気にもなります。

とても面白かったので、K氏に朗読してあげたら大喜びしていました。民話であるせいか、これは読んで聞かせると面白さが倍増するようです。言い回しがいちいち笑えます。どうぞお試しあれ。


《鶏の足の上に立つ小屋》の他にも、願い事を叶えてくれる《カワカマス》、《不死身のコシチェイ》などなど、これがそうだったのか!とようやく基礎的な知識を身に付けることができたように思います。あとは下巻を読んで、さらにロシア文学への理解を深めたいところであります。それからまだ『ハンガリー民話集』というのも手もとにあるので、それも読んでみるつもりです。ちら読みした限りでは、こちらも相当面白い。ああ、他の「民話集シリーズ」も揃えて買っておけばよかったです。しまったー。

溶解人間M

2006年07月12日 | もやもや日記
暑い、暑いです。
私は暑いのがどうしようもなく苦手です。
しかし、ここは大阪。
長い夏はまだ始まったばかり……。


このところ、いよいよ本格的に暑くなってきたせいか、体調がすぐれませんでした。まさか、夏バテ? いやいや、それにはまだ早いって……。でも、やっぱそうかも; だって、人間はこんなにも汗をかくことが出来るのか、と驚くほどに汗だくです。と、溶ける……。発汗だけでこれほど消耗していたのでは、とても夏を乗り切れません。いつか私が滅びるとしたら、それはおそらくある夏の日……。

こんな状態なので、熱中症にならないように気をつかっています。熱中症というのは本気で対策を取らないと真剣にヤバいですから、かなり意識的に水分補給をこころがけているのですが、飲むそばから体外に流れ出ていってしまいます。キリがねえ。それに、飲むより出ていっている水分のが多いんじゃないだろうか。ぼんやり。あ、塩分も忘れずに摂取せねばな…。


というわけで、このところはたいそうへばっていたので、ブログの更新どころか、色々と予定していた物事も滞りまくりです。幸い今日になって突然に理由もなく危機的状況が去ったようなので(うなぎを食べたから? それとも骨付きラム肉のおかげ? ←あまりの憔悴ぶりにK氏がご馳走してくれました)、心機一転バリバリと活動しています。遅れを取り戻さねば!

と、今日は少しばかり涼しいようなので元気を回復することができました。しかし、ちょっと暑くなると私はまたすぐに溶解するでしょう。たとえ溶けてても、偶然に街で出くわしたりしたら、どうか私であると見分けてくださいませ。多少は原型をとどめているだろうと……思います。たぶん。スライム。

暑い!

2006年07月08日 | もやもや日記
今年もいよいよ暑さが本格的になってきました。大阪の夏は暑い。今年もなんとか乗り切りたい。うなぎを食べなければ……。


さて、暑さとはあまり関係がありませんが、今、ある作業をしています。書写です。思ったよりも、長い。でも、タイピングが好きな私は、文章量が多ければ多い程燃えてしまいます。しかも、写しているのが敬愛してやまない作家の作品となればなおさら。写しながらもつい熟読してしまい、相変らずの迫力にキーを打つ手の震えが止まりません。今回はいままでとは違ってまだ号泣はしていませんが、もうすぐ問題の箇所にさしかかろうとしているので、多分また涙で画面が見えなくなること必至です。凄い、凄いな、やはり。思い入れが強過ぎて、冷静に作品を評価することができないのが私の最大の欠点であろうことはよく自覚していますが、今のところどうにもなりません。

しかし、写してみて分かったことは、これまでにもう何度も読み返しているにもかかわらず、完全に読み違えていた箇所がいくつか見つかったということです。驚きました。正確にゆっくり読んでいるつもりだったのですが、どうやらそうでもなかったようです。なんてこった。これを機に、この忌わしい読み癖も直してしまいたいところです。

もうあとちょっとで、作業終了です。なんのためにこんなことをするのか(私は文庫を持っているのに)、と考えてみると、……なんででしょう。ただ、こんなことでも、失われていくことや忘れ去られていくことから、すこしは作品を遠ざけることができるかもしれないと期待をしているのです。思い付く限りのことはしておきたいというか。ほんとうは原書を手に入れるとか、せめて英訳版を探し出すとか、やるべきことは他にもあるはずですが、それにはまだ情熱が足りないようです。だらしがないなあ、私は。でも真剣に反省するには、今は少しばかり暑すぎるので、涼しくなったらまたがんばることにします。湿度が高すぎて息も絶え絶えなんです。

『謎のホームページ サラリーマンNEO』

2006年07月05日 | 映像
しまったーッ! 昨日の晩の放送を見逃してしまった、しかも、今週は金曜深夜の再放送がないらしい、ギャー、追い討ち!!

と、慌てましたが、BS2のほうで再放送があるらしい。助かった。セーフ。


面白いという評判は以前から聞いていたこの番組ですが、これほどとは思いませんでした。まずK氏がたまたま視聴して、珍しくも異常に気に入ったようで、私にもすすめてくれました。ふむふむ。なるほど、面白い。NHKも変わったなあ。しみじみ。

とってもシュールなネタの数々は、笑えるようで笑えない感じもあり、非常によく出来ているのでした。
私のお気に入りは実は「RE:」というコーナー。くだらなくて、いい。ほんとにくだらない。でもつい続きが気になってしまう。
あとは「世界の社食から」。やっぱ、世界中の大企業の社員食堂には興味津々。どこの社食もとてもおいしそうです。
ちなみにK氏は「がんばれ川上くん」と「NEOエクスプレス」が気に入っているらしい。たしかに「川上くん」はこないだガラパゴス行きが決まりそうになってて笑えました。「エクスプレス」のほうは、生瀬さん演じる「報道男(むくい みちお)」さんが好きらしい。その名前が。私は、その相棒の「中村ネオミ」さんが好きだなー。



そんな感じで、『ニュース10』が終わってしまったことはいまだに悔やまれます(私は今井さんと有働さんのコンビが好きだったのです)が、夜のNHKは意外と充実しています。

『海へ出るつもりじゃなかった』

2006年07月03日 | 読書日記ー英米
アーサー・ランサム 神宮輝夫訳(「アーサー・ランサム全集7」岩波書店)


《あらすじ》
中国から帰ってくるおとうさんをハリッジで迎えるために、ウォーカー家の子供たちとおかあさんはピン・ミルに滞在していた。港で鬼号という船に乗っている若者ジム・ブラディングと仲良くなった兄妹は、おとうさんが帰るまでの数日を、彼の船の中で暮すことになった。港の中を穏やかに帆走していた鬼号だが、二日目の朝、鬼号は濃い霧に包まれたーー。


《この一文》
”「アホイ! ジョン!」
 「おとうさん!」と、ジョンはあえぐようにいった。「アホイ! アホイ!」 ”


怒濤の七作目です。これまでで一番ハラハラしました。

今回、ツバメ号の乗組員を乗船させてくれるのは、鬼号のジム・ブラディングという若者です。これから大学生になるという彼は、体はとても大きくて立派ですが、ジョンよりも少し年上のお兄さんといった感じでしょうか。自分よりも年下の子供たちを船に乗せてあげたいと言って、おかあさんと交渉してくれる親切な若者です。結局、兄妹は、海へは出ないということを約束した上で、ジムとともに港の中を巡る鬼号での船上生活を始めます。
ツバメ号の面々は、最初の冒険から丸二年が経ち、それぞれに成長しています(丸二年と言うことは、前作の『ツバメ号の伝書バト』と同じ夏ということでしょうか。あれは夏休みの始めの話で、これは八月下旬の話のようです。忙しいんだな)。末っ子のブリジットがだいぶ大きくなって、今作ではしっかりと話せるまでになっていました。しかし彼女はまだ小さいので鬼号への密航の企てはあえなく失敗に終わります。がんばれ、ブリジー。

さて、ウォーカー家のおとうさんは、海軍にいるのでなかなか登場しなかったのですが、今回はいよいよその姿を見ることができそうです。おとうさんは子供たちをとても信頼していて、彼らが経験を積みながら成長してゆくことを誰よりも望んでいるらしいことは、これまでの電報の文面や、何か決断しなければならない時に子供たちやおかあさんがしばしば口にする「おとうさんなら、きっとこういう」という言葉などからもよく分かります。そのおとうさんがいよいよ帰ってくるのです。

兄妹の誰もがおとうさんにはやく会いたいと思っています。しかし、深い霧に包まれて、鬼号は思わぬ災難に見舞われます。そして、スーザンの堪忍袋はついに決壊し、ジョンとスーザンは珍しく喧嘩までする羽目に陥ります。事態がいかに深刻かがみてとれます。いつもだったら、ロジャがトラブルを持ち込みそうになるのですが、今回のロジャは一番まともでした。冷静。肝が据わってます。見直したよ、ロジャ。まあ、最年少だから責任がかからない気楽さもあるのでしょうけれども、やたらとびびったりしないところは立派。ピンチでも食欲を忘れないところも本当に偉いと思いました。生命力が強いんだなー。頼もしいぜ。

本当に怒濤の七作目です。私は読みながら、動悸が激しくなるのを止められませんでした。なるべくネタバレしないように注意して記事を書いてみたつもりですが、物語のタイトルからいくらか内容は推察できるかと思われます。たまにはスリルが欲しい、という方には是非ともおすすめいたします。

あと一言、途中から小さな子猫が登場するのですが、それがとても可愛いのでした。

『ツバメ号の伝書バト』

2006年07月02日 | 読書日記ー英米
アーサー・ランサム 神宮輝夫訳(「アーサー・ランサム全集6」岩波書店)


《あらすじ》
夏休みになり、ツバメ号のウォーカー兄妹、ドロシアとディックのDきょうだいは湖へやってきてアマゾン海賊のブラケット姉妹と合流した。フリント船長が不在の間、8人の子供たちは丘陵地帯へ遠征し、強力な土人タイソンおばさんとたたかい、ライバルの謎の男「つぶれソフト」を偵察しつつ、日照りで水不足のハイ・トップスを掘り進む金鉱探しという新しい冒険を開始した。


《この一文》
”「どうしようもないわよ。」と、スーザンがいった。「ティティの性質は知ってるでしょ。あの子は物事にとっても敏感なのよ。わたし、きのうの晩、あの子が病気になるかと思ったわ。」 ”



さて、とうとう六作目です。やっぱりいつものメンバーが揃うと安心します。私の好きなDきょうだいは、優しくて大らかで彼らの才能を十分に評価しているウォーカーとブラケットの子供たちと一緒にいるほうが、活躍の場を多く与えられるようなので嬉しいです。特に、今回のディックは皆から信頼を受けて学者や技術者として大活躍していました。よかった。よかった。

これまでのシリーズでも、子供なら誰でも一度はやってみたいと思うことを次々と実現してきた一同ですが、今回はついに金鉱探しです。いいなあ、ロマンだなあ。私も掘りたい。洞窟とか鉱山とかってロマンですよね。隠されたお宝を掘り当てたいと願うのは、子供だけではなく大人も、フリント船長じゃなくても思うところであります。ツバメ、アマゾン、Dきょうだいは新たに「SAD鉱山会社」を立ち上げて、金鉱を掘ろうと奮闘します。しかも今回の彼らは、ただの「ごっこ」をして遊ぶのではなく、鉱山のかわら屋ボブからの確からしい情報を得ています。いやが応にも盛り上がります。

さて、二作目『ツバメの谷』の時にも、ティティのオカルト資質が描かれていましたが、今回も彼女はそのたぐい稀な能力を発揮していました。それが、ジョンでもスーザンでもないというのは、とても納得です。やはりティティはどこか特別なところのある女の子です。一方、弟のロジャは、だいぶ大きくなってきたせいか、少しばかり生意気になってきました。行動力が増してきたので、手に負えなくなる日も近いでしょう。今回も、ロジャはとってもはじけていて、物語をぎりぎりのところまで盛り上げてくれます。スーザンは気の毒に……心労が絶えません。

物語は、金鉱探しというだけでも盛り上がりますが、例によって様々の要素が巧妙に組み立てられてラストまで一気に突っ走ります。そして、鉱物を題材にしているということもあり、化学の勉強にもなるなあという感触でした。ロマンが加わると、化学変化だって楽しく学べますよね。学生時代の私は、物質の化学反応をなかなか理解できませんでしたが、「王水は金をも溶かす」というところにはときめいたので覚えてました。ともかく、ディックが活躍するので、色々な科学的実験が次々と行われて、非常に興味深かったです。

ところで、このシリーズでは毎回なにかしらピンチの局面があるのですが、今回のは本当にピンチでした。子供たちが成長するとともに、冒険も少しずつ大がかりになり、乗り越えなければならない困難も深刻さを増しているのでしょうか。ロジャからは特に目が離せませんね。

それと、今までのシリーズでは、子供たちの周囲には好意的で親切で物わかりの良い大人しか登場しませんでしたが、かつてブラケット姉妹を悩ませた「大おばさん」のような人物はこの辺には住んでいないのだろうかと疑っていたら、今回ついに登場しました。タイソンおばさんです。何と言うか、土人の中の土人という感じでした。SAD鉱山会社にとっては、これもある意味で大ピンチです。

さらに、鉱山をうろつく謎の男が彼らの前に現れます。得体の知れぬ男、伝書バト(三羽のハトの名はホーマー、ソフォクレス、サッフォー。なんて素敵なんだろ)による秘密の通信、南米からの到着が待たれる未知の生物ティモシー、枯れた渓流、そして大昔の鉱夫によってうち捨てられた無数の鉱坑ーー。うーむ。こんなに面白要素が揃っていて、盛り上がらないわけがありません。そしてもちろんとっても面白かったのでした。もうシリーズの半分まできたので、勢いづいて後半も読んでしまいます。今年の夏は「ランサムまつり」です。

『オオバンクラブの無法者』

2006年07月01日 | 読書日記ー英米
アーサー・ランサム 岩田欣三訳(「アーサー・ランサム全集5」岩波書店)


《あらすじ》
春休み、ノーフォーク湖沼地方へやってきたドロシアとディックのDきょうだいは、川面に浮かぶティーゼル号へと乗り込んだ。いよいよ船の扱いを勉強できるという期待に胸を膨らませるふたりだが、船主のバラブル夫人には、船を動かすことはできずそれは浮かぶだけで動かせる望みは全くなかった。がっかりするDきょうだいの前に、土地の鳥を守る「オオバンクラブ」会員の少年トム・ダッジョンとその幼なじみの双子の姉妹ポートとスターボード(本名はネルとベス)が現れる。提督となったバラブル夫人に率いられ、ティーゼル号は提督の故郷を目指し出帆する。


《この一文》
”ウィリアムは、引き具をつけられることは、お菓子屋と文明にもどることを意味するのだと判断した。”



今回は、Dきょうだいが主役です。やったー! と思って読み始めたら、実は主役はトム・ダッジョンでした。湖沼地方に生まれ育った彼は、自分の船を持ち、川辺に棲む鳥たちを守る「オオバンクラブ」を結成しています。その土地へは船に乗るためによそから大勢の観光客が集まるため、もめごとを起こさないようにこどもたちにも「よそものとは関わるな」という教えが徹底的にしこまれています。ところが、トムは鳥を守るために「よそもの」ともめごとを起こし、湖沼地方を逃げ回ることになるのでした。

この物語では、トムの敵は、快速艇マーゴレッタ号を派手に乗り回し鳥の巣の平和をかき乱す礼儀知らずの「よそもの」の若者グループですが、Dきょうだいとバラブル夫人も同様に「よそもの」として扱われます。トムは、ティーゼル号の乗組員がいかに良い人々だとは言っても船の知識も潮の知識もない上、結局は「よそもの」だとして信用しません。そういう排他的な彼の性質は、物語の終盤まで、読んでいて楽しいものではありませんでした。私の個人的な感想ですけど。

トムの性質は私の好みではありませんでしたが、物語自体は今回も面白かったです。いつもと違うところと言えば、今回はこどもだけの冒険ではなくて、実際に対立する大人がいて、かれらとの追いかけっこに終始するために、冒険の夢が膨らまないところでしょうか。シビアな状況には、なかなか北極探検のようなロマンの入り込む余地がありません。ドロシアはそれでも頑張っていましたが、彼女の空想は、ティティやナンシイのものとはちょっと性質が違うようです。ティティが楽しい現実をもっと面白くするために空想するのに対し、ドロシアは、物語を面白くするために現実を切り取っているという気がします。ツバメ号やアマゾン号のこどもたちが、前作『長い冬休み』の中で、単調な作業の合間にドロシアの物語をせがんだのは、ドロシアの物語がある程度現実から切り離された純粋な空想の物語だからなのかもしれないと思いました。退屈も、大ピンチも、ドロシアの中ではいつも素敵な物語の断片に変換されてゆきます。逆に言うと、ドロシアにはリアルな危機感が不足気味です。ディックもしかり。もちろん、私はそういうDきょうだいが好きなのです。

人物に関して言えば、ティーゼル号の提督は、バラブルさんという気のいい老婦人で、お供にウィリアム(犬)を連れています。私はこのウィリアムがいなかったら、この船の冒険は面白味のかけらもなく終わってしまったのではないかという気さえしています。だって、トムがあんなんではねえ。まあ、彼が有能なのは分かるんですけども。面白味のある人物と言うには、残念ながら程遠い。双子もせっかく可愛いのに、あまりキャラが活かされてないような感じで、残念でした。Dきょうだいについては言わずもがな。ドロシアの空想力も、残念ながら船を走らせている間は、トムを苦々しくさせるばかりです。ディックは相変らず熱中し過ぎでうわの空。インドア派が船上で活躍する日は遠いのかーー。

ぱっとしない人間たちに対し救世主ウィリアムは、チンという犬種で愛嬌のある風貌をしています。とってもお利口で、威厳さえ感じられる魅力的な犬です。少なくとも私は、このお話ではほとんど出番のなかったDきょうだいの穴埋めを、ウィリアムが十分に果してくれたと思います。というわけで、私の一番のお気に入りは「ウィリアムのはたらき」という章です。一番盛り上がる場面だったと思います。トムのおかげで重く暗雲が垂れ込めていた全編は、これで救われたと思いました。
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川をボートで帆走すると言えば、ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」を思い出します。あれにも犬が乗ってました。テリアのモンモランシーです。やはりボートでの旅には犬がよく似合います。これも非常に愉快なお話でした。おすすめです。
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ウィリアムの他に私が気に入ったのは、「オオバンクラブ」のメンバーの船大工の3兄弟の「死と栄光(デス・アンド・グローリー)号」という船の名前。格好いい! 兄弟もトムに比べると、かなり素直でいい奴らなので、とてもすがすがしいです(←ひどい。一応弁護もしてやると、トムも素直な少年なんですよ。でもクヨクヨし過ぎなんです。考え方が現実的過ぎてつまらないんです。あ、弁護にならないわ)。

ところで、物語全体を通して、私がどうしても気になったのは、邦訳です。主に翻訳ものしか読まない私は、普段はいちいち訳のことを気にしたりしませんが、今回の文体に関しては気になってしかたがありませんでした。というのも、登場人物の台詞において、助詞が省略されすぎているように思われたからです。なにか意図があってこのようになっているのでしょうか。それとも訳者の方のくせでしょうか。あるいは訛りの表現でしょうか。「どのみちぼくはあの船使うことできないんですから」とか。今までは全く気にならなかったのと、大人の発言にはほとんどみられないことを考えると、やはり訛り、もしくは子供らしい口調を表現しているのでしょうか。気になる……。


さて、トムと助詞の省略は気に入りませんでしたが、そして、いつもとは違う味わいでしたが、今回もハラハラさせる展開でとても面白かったです。なんと言ってもウィリアム(犬)のおかげ。おお、英雄よ。