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『バラバ』 再読

2006年07月16日 | 読書日記ーラーゲルクヴィスト
ラーゲルクヴィスト作 尾崎義訳(岩波文庫)

《あらすじ》

ゴルゴタの丘で十字架にかけられたイエスをじっと見守る一人の男があった。その名はバラバ。死刑の宣告を受けながらイエス処刑の身代わりに釈放された極悪人。現代スウェーデン文学の巨匠ラーゲルクヴィスト(1891-1974)は、人も神をも信じない魂の遍歴を通して、キリストによる救い、信仰と迷いの意味をつきとめようとする。


《この一文》

” --これは不運な人間なんだ、と彼はいった。そしてわれわれにはこの男を裁く権利はない。われわれ自身欠点だらけであるが、それでもなお主がわれわれを憐れみ給うたことは、それはわれわれの手柄ではないのだ。神をもっていないからといってその人間を裁く権利は、われわれにはない。    ”



もう10回くらいは読み返している、いや、まだ10回と言うべきかもしれませんが、『バラバ』を再び読みました。これまではこの物語の怒濤の勢いに身をまかせ一息に全力疾走で読み進めていたのですが、今回は一語一語を確実に追うゆっくりとした読書を自らに課すことにしました。少々時間がかかりましたが、その甲斐は十分にありました。今までは走り過ぎていて、きちんと理解していなかった点に気が付くことができました。よかった。

さて、私はこの『バラバ』の記事は1年半くらい前にも書いています(全然参考になりませんが「こちら」です)。それを読み返してみると、あまりにあっさりとした書きっぷりに驚きを隠せませんでした。ほとんど「あらすじ」しか分かりません。ほかに書きようがいくらでもあっただろうに……情けないことです。それにしても最も印象的な一文の引用が今回も前回も同じ箇所であったのは、なんとなく意外でした。印象的な「場面」ということならば、他の場面のほうが印象的だと常々思っている私ですが、「一文」ということになるといつもこれを選んでしまうからには、きっとこの文章には何か重要な問題が表されているに違いないと思います。問題点が多い、というのがラーゲルクヴィストの最大の魅力なのですが、短い物語の中には、驚く程多くの、おそらくはどれも非常に重大な問題が提起されているのです。


バラバはキリストの代わりに赦免された極悪人です。母親の世界に対する呪いと憎悪のうちに産み落とされた彼は、あらゆることに無関心で、人と関わらず、何も信じたりはしません。その彼が、自分の代わりに磔刑に処される人物の死の瞬間に起こった異常な光景を目撃することで変わってしまいます。ありえないことが起きそれを見てしまったことで、彼は迷い始めます。それまでは当たり前と思い、無関心でいることができた彼を取り巻く現実というものが揺らいでしまったようです。

今回あらためて気がついたことは、私はこの物語の登場人物について誤解をしていたところもあったということです。というわけで、バラバの関わる人物は少ないですが、その人たちについて改めてまとめてみることにします。彼らの存在はバラバにとってどういう意味を持っていたのでしょうか。

【クリストス・イエースース】バラバの代わりに処刑された男。バラバはどうしてもその男のことが好きになれなかったが、その男の死の瞬間にあたりが暗闇に包まれたのを目撃してしまう。救世主と呼ばれたその男は「人を愛せよ」と言う教えを広めていた。バラバにはその教えについてもまったく理解できない。

【ふとっちょ女】盗賊としてのバラバを愛した女。死を免れて帰ってきたバラバを世話するが、すっかり変わってしまった彼の姿を心から悲しむ。バラバがこの女を愛することは決してなかった。

【赤毛の大男】キリストを師とし、故郷ガリラヤを遠く離れたことを嘆きつつも心から信じている師に付いてきた純朴な男。救い主の代わりに赦免されたバラバを許さないキリスト教徒のなかでほとんど唯一バラバに対して差別も非難もせずに対話することができた人。

【兎唇女】バラバがかつて足を折り動けないでいた時に、バラバによって身も心も利用された女。そしておそらくその為に、胎内の子とともに呪いを受け、故郷から放り出されることになった。子は生まれることなく死に、バラバとも久しく会っていなかったが、再会したころには彼女は例の救世主を信仰するようになっていた。

【甦った男】キリストの奇跡によって死から甦った男。キリストの教えや奇跡を信じられず、何よりも死を恐れているバラバが、愛餐をともにすることになる人物。恐ろしく空虚な目をしている。

【サハク】バラバが年老いてから奴隷として鉱山で働いていたころ、ひとつの鉄鎖で結びつけられていたアルメニア人の奴隷。キリスト信者で、バラバが実際に救い主を見たことがあることに感激し、バラバの奴隷鑑札に自らのと同じように救い主の名をきざみつけた。長い間バラバと同じ鎖で結ばれていたことにより、二人はまるで一人のように常に一緒に行動することになる。

【ローマ総督】バラバとサハクがキリスト信者であることを聞き、二人を呼び立てて彼らが「神のものであるのか? それとも国家のものであるのか?」と問いただす。非常に現実的、実際的で、厳しい統治を行うが自身はわりと気さくな人物。ローマへと引き上げる際にも、信仰がもたらす死よりもそれを捨てることで生き延びることを選んだバラバを連れてゆくことにした。


まとめてみると、バラバには人を愛したり信じたりする、あるいは神を信じたりきっぱりと否定する機会は彼の前にあらわれる登場人物たちによって何度かもたらされたという気がします。しかし、その度ごとに彼はどうしても決着をつけることができません。絶望的に孤独な人間として生き続けます。それは、彼には何事も信じるということができなかったからでしょうか。彼を通り過ぎて行った人たちのように何かを信じることができたならという憧れよりも、どうしてなのかという疑念の方が大きかったということでしょうか。疑いつづけるというのは、たしかに恐ろしく孤独な作業です。何かを心から信じるということはその存在を確信するということでしょうから、少なくとも自分のほかに別の対象を持ち、そのことで孤独はある程度解消されるでしょうが、すべてを疑うとしたらそういったよりどころを一切持つことができないということになりましょう。実に不安で孤独なことです。

今回もある場面にさしかかると私の目からは涙が流れ出しましたが、どうしてそうなるのか今もよく分かりません。疑いつづけたバラバが自らの孤独を初めて自覚するそのときに、私は私自身の姿と、そしておそらく非常な努力でもってこの物語を編み出した作者の姿をも見出しているのかもしれません。疑うことは辛いことではありますが、どうしてもそうしなければならないとしたら、それにもきっと意味があるはずだというメッセージを感じます。このことが、バラバのように徹底的に全てを信じられないわけではありませんが、何を信じたらよいのかまったくわからずに呆然とするしかなかった私という人間を変えたと思います。あらゆることを疑って、そのために孤独に陥るかもしれない人生に価値があるのかないのかを決めるのは自分自身ではないのだということを理解したように思うのです。

そしてまた、さまざまなことを疑いながらも、純粋に素朴になにかを信じられる魂への憧れが私のなかにも確かに存在することにも気が付きました。私もあることを信じています。無力感に押しひしがれて、なかなかそれを認めることはできませんでしたけれども。そしてやはりそれは神の名を持たないものなのですけれども、心には確かに火が燃えて、私はもう絶望しなくともよいのです。
ただし、兎唇女やサハク、赤毛のガリラヤ人のように「そのために生きる」ことの美しさに私は心を打たれましたが、「そのために命まで失わなければならなかった」ことに対しては、まだどうしても悲しみと不条理を感じて仕方がありません。
よく考えてみると、誰からどのように否定されたとしても、自らの信念を命さえ投げ出すほどに貫き通すというのも、また孤独なことのように思えてきます。ただ、全てを疑うのに比べて、こちらの場合には少なくともそのことを信じている本人にとっての心の平安がもたらされうるかもしれません。しかし仮にそうだとしても、素朴に信仰する人々の死には、彼らが信じた救い主の死の瞬間に起こったような奇跡も感動もともないません。誰にも気付かれず、ただ死んでゆくだけです。でも、そのように終わる人生の価値を判断することもまた我々にはできないのかもしれません。心から信じてしまっていることを、そのために生きているそのことを否定してはとても生きられないと考える人がいたとして、それが正しいとかそうでないとかいうことを誰に断定できるでしょうか。


読めば読む程、人間を救うものは必ずしも「神」ではないと思えてきました。と言って、私は決して「神」を信じている人を否定するものでもありません。上に引用したのは、赤毛の男の発言なのですが、彼の言うのとは逆に「自分が神をもっていないという理由で、もっている人を裁く権利は、私にはない」のです。要するに、どのような立場であっても、他人の信念を傷つけるようなことをする権利は誰にもありません。「みんなが同じことを信じている」ということよりも「自分はこのことを信じている」ということのほうが重要ではないでしょうか。とても個人的な問題であるはずなのに、自分の信じることを他人が信じないからといって争ったり虐げたりするのは、本当に悲しく哀れなことです。いつか、誰を否定しなくとも、誰に否定されなくとも何かを信じていられる日が来るでしょうか。そのためにはどうしたらよいのでしょうか。



うまくまとめて、少しは成長したことを証明したかったのですが、まだまだ力が及ばないようです。もっと色々なことを考えたつもりでしたが、うまく書けませんでしたね。