半透明記録

もやもや日記

『黄金仮面の王・少年十字軍』

2005年07月12日 | 読書日記ーフランス
マルセル・シュオッブ 「黄金仮面の王」矢野目源一訳/「少年十字軍」多田智満子訳 (筑摩書房 「澁澤龍彦文学館 8 世紀末の箱」所収)


《あらすじ》
「黄金仮面の王」ーー仮面をつけた王に治められる国の宮城には鏡がなく、そこへ近付く者もまた仮面をつけなくてはならないために王は人間の素顔というものを自らの顔さえ見たことがなかった。そこへ面を露にした盲目の乞食がやってきて、こう述べる。「御前御自身は黄金仮面の王でゐられるが、その飾とは反対に恐ろしい顔をしてゐられるのではありますまいか」そして王は自らの素顔を目にすることになるのだがーー。

「少年十字軍」ーーある時、イエルサレムを目指し子供達は群れをなして出奔し、裸形の女達が村々町々を無言のまま駆けめぐる。


《この一文》

”すべての悪すべての試練はわれらの裡にしか存在せぬ。神はその御手もてこねあげたもうた御作品に全き信頼をおいておられる。しかるに汝はその信頼を裏切ったのだ。神々しい海よ、わがことばに驚くなかれ。主の御前に万物は平等である。無限なるものと比べれば、人間の尊大な理性も汝のはぐくむ生物の小さな輝ける目以上に価値あるものではない。神は浜の真砂の一粒にも皇帝にも同じ役割をふりあてたもう。僧院の中で沈思する修道士と同じくらいに瑕瑾なく、黄金も鉱床の中で成熟する。世界の諸部分は、善の道をたどらぬときには、いずれもひとしく有罪である。なぜかといえばそれは神より発した道であるゆえ。神の眼には石も植物も獣も人もなく、ただ被造物あるのみ。余は見る、汝の波の上に跳ねあがり、また水に溶けゆく白き頭たちを。陽光のもとただ一瞬躍り出るそれらの波頭さえ、呪われもしあるいは選ばれもしよう。老いのきわみの高齢がようやく傲慢心を教え諭し、宗教のなんたるかをあきらかにする。余はこの真珠母いろの小さな貝殻にも、おのれ自身にも、ひとしくあわれみを抱く。  ーーー「少年十字軍」より ”



なんだってこういう小説ばかり読むのかと言うと、どうも私は悩んでいるようです。しかし、昨日も色々考えていて、しかし上手く説明できなかったことが、幸運にもここに書かれていました。そうなのです、万物は平等なんですよ。そして善の道をたどらないならば、いずれもひとしく有罪なんですよ。人間が思考を持つからと言って優れてるってわけではなくって、他のものと同じようにただそのように存在しているだけなのです。そこに付けたがる意味や価値というのは人間の勝手な今のところ何の根拠も無いところからくる意味や価値なのではないですか。そういう意味で人間には人生に真の価値や意味を見出すことはまだ出来ないと言いたかったのだと思います。多分。
「黄金仮面の王」、「少年十字軍」のふたつの物語はいずれも人間というものについて深く考えさせるものです。仮面を脱ぎ素顔を知った後で自らの目を突いた王が得るものとは何か。「神」の何たるかを知らないままに、しかし深くそれを信じて聖地を目指す子供達の姿に何を見るか。
人間の持つさまざまの価値の全ては、人間自身が好き勝手に作り上げたものに過ぎないのだということに思い至ります。人間は何も分からないまま、闇雲に生きているだけなのかもしれません。いつか知ることが出来ればいいと願う「真理」に「神」と名付けて信じることを信仰というのでしょうか。自分達が歩いている道がどんなところか、今どのあたりなのか見当も付かなくても進むしかない不安にああでもないこうでもないと言って対立し傷つけ合う人間は哀れで、しかもそういう風にしか存在できないところに自ら罪をおわせ呪いをかけているのでしょうか。しかし、罪をおうからこそ赦される可能性があるし、呪われるからこそそこから解き放たれる望みがあると考えるべきなのでしょうか。ふたつの物語は大体こんな展開だったと思います。人間によって作り上げられた価値を捨て去る、もしくは最初から持っていない者達だけに見える世界があるかもしれない。何となく分かるような、分からないような感じですが、もっと考えるしかないのでしょう。とにかく何も分からないのにいつか分かる保証もないのに進まなければならないということはどういうことなのかと悩んでいるのは私だけではないどころか、何かを信じて進むしかない人間の永遠のテーマに違いないだろうということは、よく分かりました。次こそ『アハスヴェルスの死』を読みます。

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2 コメント

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難しくなって来ましたね (ntmym)
2005-07-14 11:43:02
やはり上手く説明できないみたいで、すみません。





>この世界が無常であれば、価値に、真も偽もないのではないですか。いまここに、存在することが価値があるし、意味もあるのでは?



後半はおっしゃる通りだと思いますが、前半はなんとなく納得いきません。

私は、人生は無意味で無価値であるということを言いたいのでは決してなく、むしろその逆であるということを本当の意味で確認したいだけなのです。今も確かにこの世界の全ての運行を取り仕切っている法則(これが例えば無常であるかもしれません)があるとして、私はそのもとで生きている訳ですから、その私を動かし、私をその中に取り込んでいる法則(これを私は真理と考えているのです、この点において曖志さんがおっしゃる神様や仏様のように、私の考える真理というものも非常に身近な、というかほとんど私自身であると言えるでしょう。この感触が信仰に近いのかと思ったのですが、どうも違ってたみたいですね)がどういうものなのかを知りたいのです。そこには、私たちが作り上げ、もう知っているつもりになっている罪や悪、苦しみはそのようには存在せず、あるいはひとつの事柄が人によって種によってもしくは時代や場所によって違って見えるなんてことも起こりえないかもしれません。全ての事柄に完全に平等に説明を付けられるものに憧れているということです。それを知らないうちに見出す価値というのは、八百屋さんがネジに単価を付けるくらい場合によっては見当違いなものであるかもしれないと感じているだけです。さらに無常であるということは、八百屋さんとキャベツとネジの間に平等をもたらすと仮定したとしても、しかし人間の今の価値基準では本来は平等であるかもしれない八百屋さんとキャベツとネジの間に明らかな隔たりをもうけてしまうではないですか。つまり私が問題にしているのは、《現段階の人間による価値付けの不確かさ》ということになりますね。それをどう乗り越えるかが、少なくとも私にとっては非常に重大な問題なのです。

曖志さんのおっしゃる「この世界が無常であれば、価値に、真も偽もない」というのもそういう意味だったのかな。私がひとりで遠回りをしてしまったでしょうか。まあ私の考えを少しは掘り下げることができたと思うので良かったです。自己中心的ですねー。
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ちょっと、アナーキー? (曖志)
2005-07-14 00:48:22
真の価値や意味に何を求めていますか?この世界が無常であれば、価値に、真も偽もないのではないですか。いまここに、存在することが価値があるし、意味もあるのでは?ntmymさんのサイトを観て楽しんでいる我々がいるから、このサイトは価値があり、意味もあると思います。これに真の価値が必要ですか。確かに人間には先がわからないことがいっぱいあります。でも、誰も闇雲には生きていませんよ。自分で選んで生きています。神様は真理とは、ちょっと違うかもしれませんね。前にある人に言われました。有名なお寺に行って俗っぽいということを言ったら、その人はお寺の人は親切だし、なんか和むものがあるのではと。そのとき気がついたのですが、神様や仏様は真理とかではなくて、もっと身近にあるものだということ。

自分がそして周りの人たちが生きていくのを助けてくださいと祈る心の中に存在することを。
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