半透明記録

もやもや日記

「死期」

2010年11月30日 | 読書日記ーフランス

アベル・ユーゴ

P.-G.カステックス編 内田善孝訳
『ふらんす幻想短篇 精華集』(透土社)所収



《あらすじ》
野営のために立ち寄った打ち捨てられた教会で、軽騎兵連隊の若き将校アルベールは真夜中のミサに出くわす。思いがけずミサの手助けをしたアルベールは、長年にわたる苦行から解き放たれた司祭からお礼にひとつだけ願いを叶えてやると言われ――。


《この一文》
“ アルベールは身震いにとらわれたが、勇気をだして言った。(人間は知らないでおいた方が幸せなことを常に知りたがるものだ。)「神父さま。私の生命(いのち)はいつまでもつのか教えて下さい。」 ”



アベル・ユーゴはヴィクトル・ユーゴのお兄さんだそうです。この短いお話はとても幻想的で美しく、しかも興味深いものでした。

アルベールは司祭から「あときっかり3年で生命が尽きる」というお告げを受け、それ以後、死を怖れずに戦い、戦争が終わり、故郷へ帰る。まだまだ長く生きられると信じていた頃にあれほど愛した美しい婚約者と再会するが気持ちは晴れず、躊躇したままで結婚する。家庭を持ち、家族から愛され、武功を立ててめざましい昇進もし、アルベールが幸福になるための条件は揃っているように見えた。しかし、もうすぐあの夜からちょうど3年、自分の命が尽きる時が迫っているのだ……。


*** 以下、重大なネタバレ注意 ***

物語の結末を書いてしまうと、アルベールの3年間は実はすべて夢であり、教会のそばで眠ってしまった彼は、翌朝同僚に起こされて、まだ生きている自分を、これがすべて一夜の夢であったことを発見するのです。

目が覚めた時のアルベールの心境の複雑さが、このお話を非常に興味深いものにしています。3年が過ぎて家族に見守られながら目をつぶったところで目が覚める。全部夢だった、自分はまだ生きている、これからもまだまだ生きていけるという安堵とともに、夢の中の幸福が、美しい妻と優しい母親、そして可愛らしい我が子、出世の栄光も、それら全てがただ夢でしかなかったという喪失感。喜びのような、悲しみのような、どちらともつかない気持ち。

思い出すのはやはり「邯鄲の夢」ですね。あのお話では貧しい若者が夢の中で栄華を極めたもののそこで目が覚め、翁から「人生とはこういうものだ」と告げられるというものでした。この書生は人生もまた夢のようなものだということに納得して帰っていくのですが、「死期」のアルベールの胸中にあるのはそういうものではないようです。


人生と夢。人はどうして夢を見るのか。夢を見て、それをどうとらえるべきなのか。夢の中の幸福を現実へ持ち出すことができないのは何故? 目が覚めて、失ってしまったものを思って胸を痛めているのだけれども、ひょっとすると、これもまだ夢の中で、ここでどんなに幸福を得られたとしても私はまた目ざめて、すべてが夢だったと思うのではないかしら。あるいはそんな私の世界もまた夢で、本当の私の人生はまったく別のところに存在しているのではないかしら。

生きているということは、そのうちの何割かを睡眠にあてるということでもあり、そこで夢を見てそれを覚えているならば、やっぱり夢というのは気になるものですよね。夢ってなんだろう。人生とはなんだろう。どちらも幻のようなものなのでしょうか。それとも、どちらも何か確かなものであるのでしょうか。あるいは、どちらかが幻で、どちらかが実体なのかな。




美しい夢も、楽しい夢も、惨めな夢も、恐ろしい夢も、いつかは醒める。はじまったものには終わりがある。そこは人生と同じかもしれませんね。私にもいつかそれをはっきりと知る時が来るのでしょう。いやもう二度と目ざめることがないならば、知ることが出来ないのかな。それは心残りだ。いや、心なんて残らないのかもしれないけどさ。

それはさておき、私は夢の中で死んだことはないけれど、目ざめて、まだ生きていたら、いったいどんな気持ちがするんだろうなあ。夢から覚めるのはそれに似た感触でしょうか。アルベールのようにぽっかりと穴があいたような気分。あの素敵な人ともう少し一緒にいたかった。でもあの怖いことが現実でなくて良かった。それならあれもまた夢だったら良かったのに。
毎晩夢を見れば、毎朝人生を生き直すことになるのかもしれません。そう考えると一瞬爽快な気持ちもわいてきますが、しかし同時にそれがいつまで続くのかという不安もあります。いつまで生きるの? いつまで夢を見続けるの?

 そして、いつどこですべてが終わってしまうのだろう。
 どんなに生きようと思っても、どんな夢を見ようとも、終わる時が来る。


この恐怖感のようなものについて少し考えさせられるような短編小説でした。恐ろしくもあり、願わしくもあり。たしかにそれは複雑な感情ですね。面白かった!





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2 コメント

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Unknown (mumble)
2010-12-03 14:18:25
記憶というものは不思議なもので、その仕組みなどまだ分かっていない。けれども、トータルリコールのような映画が作られたり、博士の愛した方程式のような本が書かれたりします。逆行性健忘とかルシッドインターバルとか、頭部外傷に伴う意識障害はそれなりに興味深いものです。何かの本に、ギロチンで首を切られたら、瞬きを何回かして見せるといってギロチンにかかった男が瞬きをしたという話とか、橋に上で、まさに絞首刑にかけられる瞬間、縄が切れ、川を泳ぎ野を駆けて家に帰り、両手を広げる女の腕に飛び込む瞬間、暗転し、カメラが引いていくと、橋の上で首を釣られた男がぶら下がっているというようなことは、記憶とか人生とか時間とかについていろんなことを考えさせてくれます。はじめ、映画を見ているのかと思った。それほど、目に映る景色と自分とが乖離していた。多くの人が輪になって私の顔を覗き込んでいる。それらの人々の側に私もいるのだと思うまでかなりの時間がかかり、自分がなぜ、床に転がっているのか、どうしてこのような状況になったかを想起しようにも、思考回路が作動せず、やっと、半身を起こし、救急車と叫んでいた人々がスーッと姿を消し、身をこわばらせて立ちすくむレジの女の姿に、そうか、金を払っていて倒れたのだと思い至った。固い大理石に頭を打ちつけて、大きなタンコブガできていた。あのように死ねるのなら死は怖くないと思い、長患いで苦しむより事故死を望むようになりました。
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ふむふむ (ntmym)
2010-12-04 11:56:24
mumbleさん、こんにちは~♪

記憶と人生、興味が尽きませんよね。まったく記憶がない時間を、生きていたと言ってよいものなのか。うーむ。

というか、えっ、お金を払っていて倒れたというのは大丈夫だったんですか?(^_^;) 貧血とか?? でもご無事でなによりです。
私は酔っぱらって、玄関で鍵を開けようと鍵穴に差し込んだところでぶっ倒れたことはあります。起きたとき、天地がどのようになっているのか分からず混乱しましたね。背中が壁にひっついているのかと思ったら、それは床でした。でも誰も通りかからなかったので、孤独に起き上がりましたよ; 気をつけないと!
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