半透明記録

もやもや日記

『架空の伝記』

2010年05月10日 | 読書日記ーフランス

マルセル・シュオッブ 大濱甫訳(南柯書局)



《あらすじ》
同時代最大の偉人を綿密に描写したり、過去において最も有名だった人物を描くのではなく、神に近い人であれ、凡人であれ、犯罪者であれ、その人独自の生活を同じ心遣いをもって語った架空の伝記集。


《この一文》
“神々のことはめったに口にせず、神々を気にかけることもなかった。神々が存在するかしないかは大した問題ではなく、神々が彼に対してなにもなし得ないことをよく承知していたのだ。その上、神々が人間の顔を天に向けさせ、四脚で歩く大部分の動物の持つ能力を奪いとり、わざと人間を不幸にしてしまったことを非難していた。生きるために食べなくてはならないように決めた以上、神々は人間の顔を木の根の生える地面に向けさせるべきだった、とクラテースは考えたのだ。人は空気や星を食べるわけにはゆかないのだ。
  ――「犬儒家 クラテース」より ”




人間の一生とはいったい何なのか。誰かの生涯を、別の誰かが語るとはどういうことなのか。世の多くの物語はそもそもこの『架空の伝記』のようなものではないだろうか。物語とはそういうものなのではないだろうか。誰かによって生み出される物語と、誰かによって生きられる人生との間には、実際どのくらいの隔たりがあるのだろうか。私が私を語ることは可能だろうか。あるいは私の人生もまた誰かによって語られる物語となり得るだろうか。

ということなどを考えましたが、どれもまとまりを欠いてただ流れてゆくばかりでした。ただ言えることは、この本はなかなか面白かったということです。


私の好みで判断すると、前半の人々の伝記が面白かったですね。色彩が豊かで美しく、神話のようで。あとに進むにしたがって伝記に描かれた人物が生きる時代もくだっていくのですが、古代においても近代においても、そこで語られる人々の人生はいずれも独特の雰囲気をもって描かれていることに変わりはありません。美しいこともあれば醜いこともあり。そして私には、どうしてだか時代が新しくなるにつれて彼らの生き様には惨めさやそれにともなう悲しみの色が増してくるような気がしました。
ここに描かれた古代の人の最期は、同じ死ぬにしても、どこか人を圧倒するような、偉大な何かを感じさせるところがあります。「犬儒家クラテース」は自らの思想に従って犬のように暮し、犬のように死にました。また宇宙の形相を描こうとした「絵師パオロ・ウッチェルロ」の物語は壮絶な印象を残します。それに対して、海賊に憧れて海賊となった貴族の「気紛れ海賊ステッド・ボニット少佐」などは描写はより具体的になった気がするものの人物の行動のスケールはやや小さくなったようにも思えます。
どうしてでしょう。

同じようなことをアナトール・フランスの『ペンギンの島』を読んだ時にも感じたのを思い出しました。この『架空の伝記』もまた、古代には古代の雰囲気を、近代には近代の雰囲気を持たせて架空の伝記を描いた結果として、読者にこういう印象を与えるのでしょうか。「その時代の文学らしい感じ」は、たしかにそれぞれのお話に感じられます。となると、古代には人間は偉大な人の偉大な様子を書き残したが、近代に至ってようやく凡人の、芸術世界から捨て置かれていた悲しみや惨めさという側面に目を向け、それを描けるようになったということなのでしょうか。分かりませんね、やっぱり私にはまとめられませんね。「序」で作者は、「神に近い人であれ、凡人であれ、犯罪者であれ、その人独自の生活を同じ心遣いをもって」語ると書いてあるように、たしかに「その人独自の生活」はどの物語にも描かれてありました。たぶん私は序文をもう一度注意深く読む必要がありそうです。



面白かったです。でも、一人一人の架空の伝記を面白い面白いと読みながら、次々と読み進むにつれて、その度に前のものを忘れてゆきました。そういう私が、私は少し悲しい。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿