半透明記録

もやもや日記

『シルヴェストル・ボナールの罪』

2010年07月14日 | 読書日記ーフランス

アナトール・フランス作 伊吹武彦訳(岩波文庫) 



《内容》
作者の出世作であり、代表作の一つに数えられる日記体の長篇小説。セーヌ河畔に愛書に囲まれてひっそりと暮す老学士院会員をめぐるエピソードが、静かなしみじみとした口調で語りつづけられる。古書にとりかこまれて育ち、多くの書物から深い知識を得たのち、その空しさを知った懐疑派アナトール・フランス(1844-1924)の世界がここにある。

《この一文》
“人間はそれぞれ勝手に人生の夢を見るものである。私は書斎のなかで人生の夢を見てきた。いよいよこの世を去るべき時が来たら、どうか本をならべた書棚の前の梯子の上で死なせていただきたいものである。 ”






『シルヴェストル・ボナールの罪』とありますが、「罪」らしい「罪」は私には見分けられませんでした。ボナール氏は可愛いジャンヌの結婚支度金にあてるために売却しようとしている書物の山から、こっそりと取っておきの本を抜き出します。そこに罪を感じていたようですが、これは罪なのかな。人はどんなふうに生きたとして、その途中でどんなふうに軌道を変えたとして、辿ってきた道筋で得たものをを手放すことができないことはあるだろうし、それらに執着することが罪であってほしくはないと私は思うわけですが、何を罪だと思うかは人それぞれで、要するにボナール氏はそれほどに控えめで善良な人生を送ったということでしょうか。

ボナール氏は書物のなかで、研究に没頭して、猫と家政婦がいるだけの静かな暮らしのうちに年を取っていきます。
物語は2部構成で、第一部は「薪」、引き蘢りの老学士院会員ボナール氏の家の屋根裏に不運な若い未亡人が住み着いて、生れたばかりの赤ん坊を可愛がっていると家政婦のテレーズから聞いたボナール氏は薪やスープなどささやかなものをその美しいと評判の女房に届けさせる。その後出世した奥さんと不思議な巡り合わせで再会するという話。
第二部は「ジャンヌ・アレクサンドル」、ボナール氏が若かった頃ただ一人愛した女性の孫娘と、これまた不思議な因縁で出会うこととなり、ボナール氏は孤児となっていたその娘の面倒を見てやりたいと思うようになるという話。

どちらかと言うと心温まる物語です。静かで優しいお話が続き、恐ろしい場面と言えばボナール氏が幼少期に体験した大尉の伯父さんがらみの逸話か、かつての想い人の孫娘ジャンヌを管理しているオールドミスの塾長から熱愛され求婚され、どこでどうなったのかボナール氏がそれを承諾したと思い込まれていたのが発覚した場面くらいでしょうか。あれは恐かった。その他はしみじみと大団円。本とばかり付き合ってきたボナール氏が、老いて初めて自らが素通りしてきた人や世界との交わりを持つようになる有様を美しく描いてあります。

そう、優しくて美しい物語なのです。けれどもところどころで、どうしてだか悲しみのような、いや空しさだろうか、なにかグサリグサリと胸に食い込むようなものを感じて仕方がありません。ボナール氏は学士院会員としてちゃんと研究の成果もあげて、情熱を燃やし続けてここまで来たというのに、ふと立ち止まったりするのです。もしかしたらすべて無駄だったのではないかと、もしかしたら自分にも父、祖父と呼ばれるような別の人生を送ることもあったのではないかと。立ち止まったところでジャンヌという娘を得たボナール氏は幸いです。ジャンヌとの出会いを通して、これまでに知らなかった世界の楽しさや美しさを発見することになったボナール氏は幸いです。ああ、こんなことがあったらどんなにか! まるで夢のような幸福です。あまりに幸福なので、ジャンヌの結婚というさらなる幸福の為に蔵書を売り払うことにしたボナール氏。でもすっかりやり遂げることができませんでした。それが彼の罪。ささやかすぎる罪。これは罪? 私にはやっぱり分からないや。

物語に哀しみを印象づけているのは、さらに結末の部分であるかもしれません。結婚したジャンヌとその夫、小さなシルヴェストル坊や、花と虫を愛するようになってパリから小さな村へ移り住んだシルヴェストルおじいさんのお話。ほんの短い文章ですが、堪え難いものがありました。美しい、けれども悲しい、それでいてやはり美しい世界。まるで夢のような描写で、胸がいっぱいに詰まってしまいます。文字の間ではなく、現実の人生を生きて、あたたかい愛情に包まれて、でもそこにもやはり悲しみが滑り込んできて、喜びもまた悲しみもまた通り過ぎていく――。この部分はボナール氏の夢なのかな。夢なのかもしれない。夢。夢。



“「美しい夢でございますね。そんな夢を見ようと思えば、よくよくの
 才がいりますわ」
 「では私は眠っていると才が出てくるわけですね」
 「夢を見ていらっしゃるときにです」と夫人はいい直し、「そして
 先生は、いつも夢を見ていらっしゃるのです」         ”







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