半透明記録

もやもや日記

『コロノスのオイディプス』

2005年12月16日 | 読書日記ーその他の文学
ソポクレス 高津春繁訳(『アイスキュロス・ソポクレス 世界古典文学全集 第8巻』 筑摩書房)


《あらすじ》

オイディプス王が自分の素性を覚り、自分が父親殺しであり、母親を妻として、不倫の交わりから、ポリュネイケスとエテオクレス、アンティゴネとイスメネの二男二女を設けた天人共に許すべからざる罪人であることを知り、自ら両眼をつぶして盲目となってからのことは、ホメーロス以来いろいろな話があって一致しないが、ソポクレスのこの劇では、王が国を追われる時に、二人の息子たちは父を庇おうとしなかったことに立腹し、姉娘のアンティゴネに伴われて、諸国を流浪の末、アッティカのアテナイ近郊コロノスのエリニュス・エウメニデスの神域の森に到着することになっている。
 この時王の祖国テーバイには、王座の争いから、国を追われたポリュネイケスが、アルゴスのアドラストス王の援助を得て、その大軍をひきいて城下に迫っている。この戦の始末は、アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』と、ソポクレスの『アンティゴネ』が扱っているが、『コロノス』はこの悲惨な事件のプロローグであると同時に、神々の虐い運命にしいたげられたオイディプスの神々との和解の物語である。


《この一文》

”すると突然、誰かの声があの人を大音声で呼んだので、並みいる者たちの髪の毛は、たちまち恐怖に逆立った。というのは、神は彼をいくたびも幾重にも呼んだからだ。そこなるオイディプスよ、オイディプスよ、なぜわれらは行くことをためらうのか。お前はもう遅れているぞ! 彼は神に呼ばれているのに気づいた時に、この地の王テセウスに自分に近づくことを求めた。そして近づいた時に、言った。   ”





『コロノスのオイディプス』は、制作年代は最も後になりますが、物語の順番で言うと、『オイディプス王』の次、『アンティゴネー』の前の話になります。ソポクレスの最晩年の作品であると言われておりますが、さすがに他の2作に比べてこの物語がもっとも壮大であるように感じました。あいかわらずテンポが良く、シンプルでありながら極めて印象的な表現が続きます。面白いです。ラーゲルクヴィストばりに感動しました。要するに、現代文学と比べても、全く劣らないほどの完成度です。さすがに古典中の古典だけはあります。本当に偉大だなあ、ソポクレスは。

この作品中で、ソポクレスは、オイディプスに彼が実は被害者であったということを自ら語らせています。彼は確かに父を殺し、母を妻としましたが、それは自分でも知らずに来た道を辿った末のことであり、不可避であり正当でもあったと覚ります。オイディプスが最後の最後で救われるのは、そのためであるのかもしれません。もちろん、この呪われた家系の悲劇は彼の死後もまだまだ続くのではありますが。神はなぜオイディプスにこのような苛酷な運命を担わせたのでしょうか。そもそもこの呪いは、オイディプスの父ライオスから始まっているような気もしますが(ライオスは亡命先の国の王子に恋をしそうになったことで呪われ、子を設ければその子に殺されるという神託を受けたにも関わらずオイディプスを生ませ、棄てさせます。私個人の感想からすると、王子に恋したくらいで呪わなくても……という気もしますが、神は彼を許しません)、一人の過ちが一族全体を滅ぼすほどの悲劇を巻き起こすことになるとしたら、それは何とも恐ろしいことです。ソポクレスの物語では、その恐るべき神の道を逃れることは、人間には決して出来ないようになっています。悲劇を避けるための決断というものが、彼等にはどうしても出来ないのです。いったん始まってしまえば、どうあっても、たとえその先が悲劇であっても突き進むしかないのです。恐ろしい。神の意志(時にきわめて不可解な)の前には、人間の起こす行動など、たとえそれが善意からであれ悪意からであれ、ほとんど無意味に等しいのでした。人間は自分では正義を発見することが出来ず、されるがままに浮かびもし沈みもします。


正義とは。
不可解で絶対的な神の道を、人はただ打ちのめされて歩くしかないのか。
神々との和解とは。
人類が長らく抱えている深刻なテーマと言えましょう。現代に生きる私に涙させるほどの傑作を生み出したソポクレスは偉大であることは疑いもありませんが、別の見方をすると、人類はソポクレスの時代から現代に至っても、いまだ精神的にはさして進歩を遂げていないというふうにも言えるかもしれません。私はソポクレスから、一体何を学べば良いのでしょうか。いつか我々は、新しい眼を持ち、この問題を過去のものとすることが出来るのでしょうか。それとももう既に誰か答えを得た人がいるのでしょうか。いずれにせよ、私はもっと勉強しなくてはならないことには違いないでしょう。

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4 コメント

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オイディプス王を理解するためには・・・ (蓑笠亭主人鋤谷九郎)
2009-10-31 21:50:32
もう既に絶版になってしまいましたので、今では入手困難ですが、かつて青土社という出版社から『オイディプスの謎』という本が出ていました。著者は、学習院大学教授の吉田敦彦先生です。この作品は、ソポクレスが『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』に仕組んだ謎をまさに快刀乱麻を断つがごとくに見事に解き明かしてくれた名著です。その謎解きを簡単に説明することは困難ですが、あえてするなら、『オイディプス王』に描かれた世界は、作品中には登場しないスピンクスの「正当な謎」に支配されているということになるでしょう。実は、スピンクスは、「この世の中で、声は同じ(容姿は同じ)でありながら、4本脚にも、2本脚にも、3本脚にもなり、そのピュシス(性質)を変える唯一のものは何か」という謎を出していたのです。答えは一般的に知られたものと同じ「人間」です。つまり、スピンクスは、「同じ容姿でありながら、その内面が、獣にも、人間(青年)にも、老人にもなるものは何か」と聞いていたのですね。そしてそれは人間には決して解き明かせないと確信していいました。でも、オイディプスは、「自分」という実例を示し、スピンクスを自殺に追いやります。そして、その後の彼がたどった運命は、ここで言うまでもないでしょう。しかし、ソポクレスは20年という歳月と、彼の残りの人生のすべてをかけて、オイディプスに対して負ってしまった「人間性の剥奪」という「罪」を『コロノスのオイディプス』で償ったのです。彼は、人間性を完全に剥奪してしまったオイディプスを神として昇天させます。そして、この人間性の「剥奪」と神性の「付与」は、そのまま当時のギリシャ人へのメッセージであったと、吉田先生は述べています。「敗北間違いなし」と思われていたペルシャ戦争では、まさに奇跡的大勝利をおさめ、アテネは最高の繁栄を謳歌します。しかし、それに続いて起こったスパルタ相手のペロポネソス戦争では、まさしく人間性を剥奪されるような敗北を喫するのです。しかし、「そんな塗炭の苦しみの中にあっても、人間としての尊厳を失わず、毅然と生きてゆくこそが、神の意志に従うことである」というメッセージをソポクレスは『コロノスのオイディプス』に込めていたのです。したがってこの作品を『オイディプス王』より優れた作品とする人が多いのも、わかる気がしますね。 長々と失礼しました。
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なるほど~ (ntmym)
2009-11-01 09:53:44

>「そんな塗炭の苦しみの中にあっても、人間としての尊厳を失わず、毅然と生きてゆくこそが、神の意志に従うことである」

そうか、この物語が感動的なのは、こういうメッセージが込められていたからなんですね。
なるほど、目から鱗が落ちました(^^)

それは美しいですね。
私はもう一度、そういうことを念頭に置きながら読み返してみようかと思います。そしたらもう少し理解が深まるような気がします。
分かりやすくお教えいただき、どうもありがとうございました(^^)!

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もう一つ大事なこと・・・&「妄想」を一つ (蓑笠亭主人鋤谷九郎)
2009-11-01 20:21:55
たびたびすみません。もうひとつ、大切なことを失念しておりました。それは、「オイディプス」という名前です。この名前が、古代ギリシャ語で「腫れた足」であるということは、作品中でも述べられています。つまり、ピンで両踝を貫かれていたために、そのピンが抜かれ傷が癒えても、しかも、大人になっても、足が「腫れて」いたことからつけられた名前です。このことからも、彼の「人間性」(二本足)は生まれた直後から、完全否定されていたのです。しかし、この「オイディプス」という名前は「私は見て知っている」という意味が隠されているのだと吉田先生は『オイディプスの謎』で指摘されているのです。「母子相姦」さらには、兄弟姉妹でありながら、自らの息子や娘という人間としてあってはならない「獣性」(四本足)を見せつけられた彼は、自らの両目を自ら潰し、青年(二本足)でありながらも杖の頼りなくしては歩けない老人(三本足)になり果てます。しかし、彼はそんな見えない目で人間を「見」続けそして、人間とはいかなる存在であるかを「知った」のです。人間としての足の数は否定されながらも、彼は人間であり続けたのです。
 ソポクレスという人物は、ntmymさんもご指摘の通り、本当に偉大な(悲)劇作家だったと思います。三千年も前に人間の本質をこのような形で描き出したのですから。(また、その謎に気付かれた吉田先生もすごい方だと思います。ちなみに、『オイディプスの謎』、アマゾン.comで1円で出ています。ご参考までに。蓑笠亭にはちょっと複雑な気分です・・・)
 蓑笠亭は『平家物語』が好きで、よくあちこちツマミ食いしますが、この作品も「人間とは何か」を述べているのだと思います。登場する人物は一人を除いて、ことごとく死んでしまいます。しかも、みんな泣きながら戦争をするのです。「そんなに嫌なら、戦争なんかしなければいいのに」と読みながらいつもそう思います。でも、それこそ、自分の力ではどうにもならない運命に操られ、みんな死んでゆくのです。しかし、それら「死」と同数存在する「生」は、どれもこれも、みな「美しい」のです。『平家物語』は「諸行無常」の物語だとよく言われます。確かにその通りです。しかし、その遥か彼方にある「諸行無常」のずっと手前の、「人間としての生」いいかえれば、「人間性」を描いた作品こそが『平家物語』であると、蓑笠亭は確信しています。
 遠いギリシャ時代にソポクレスが「オイディプス」として描いて見せた「人間性」は時空を超え、鎌倉時代の日本の『平家物語』として現れ、さらに両作品は、21世紀を生きる我々にも語りかけてくれている。そんな「妄想」する今日この頃です。
再度長々と失礼しました。
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へ~! (ntmym)
2009-11-01 21:43:45
蓑笠亭さま、こんばんは☆

吉田先生の本、とても面白そうですね! ぜひ読みたいです!(幸いお手頃で手に入るようですし…;)

>「私は見て知っている」という意味が隠されている

なるほど。物語を深く読むというのは大切ですね。物語を理解するためにはやはり深く深く考えなくてはならないのですね。勉強になります!

平家物語は人間性を描いた物語だという御説には私も同感です。だからこそあんなにも感動的なんですよね。彼らは皆死にますが、それがそのまま彼らが生きていたことを意味していて、私たちはそこにやはり今生きているがやがて死ぬ自分たちの姿を見いだしては、心を打たれるのでしょうか。また、その生はときに辛く悲しいものであったりもしますが、それでも限りなく美しいものでもあるということを思い出したりもしますね。人生は美しい。人として生きることは、そう悪くはないものですよね。
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