半透明記録

もやもや日記

『歯とスパイ』

2010年07月22日 | 読書日記ーその他の文学

ジョルジョ・プレスブルゲル 鈴木昭裕訳(河出書房新社)




《内容》
SD4・右上第一小臼歯。この歯が痛むとき必ず、要人が暗殺される! そして、IS1・左下中切歯。この歯が黒ずんだとき、不倫の愛がはじまった。続々と登場してはわたしの運命を狂わせる奇人歯科医たち。すべてが〈歯〉のしわざなのか。
東欧的想像力が生んだ寓意と奇想あふれる物語。


《この一文》
 “「肉体のなか、それに歴史や宇宙のなか、どんなに遠くかけ離れたもののあいだにも、なにかのつながりは隠されている。これが偶然でありえようか?」その朝、わたしはそう思った。万物照応の理をかいま見てからは、その思いが、六年以上にわたり、わたしの心を照らしてくれた。その後、わたしの人生が嘘と作為と本心のはざまでこじれだすと、その光は少しずつ消えていった。それ以来、わたしは半ば盲いたまま、すくわれない薄明のなかにある。だが、いっそのこと、まったくの盲目であるほうが幸せなのではなかろうか? ”





いったん流れに乗ってしまうと、しばらく同じようなテーマを扱う物語が立て続けに目の前に現われるものです。『シルヴェストル・ボナール』で人生の空しさを思わされた私はその後は何を見ても空虚な気持ちしか沸いてこず、それを加速させるかのように、私の目に飛び込んでくるのは人生の空しさを扱った物語ばかりでした。これはいつまで続くのだろうと問いかけそうになりましたが、そもそも蔵書を落着いて見返してみると、私はこんなテーマの本ばかり集めているんですよね。じゃあしかたない。

ついでに書くと、あまりに暗くなってきたので、ちょっと前に録画してあったBBCのドラマシリーズ『華麗なるペテン師たち2』の第二回をまだ観ていなかった! そうだ気分転換にあの愉快爽快なドラマを観ようじゃないか! と張り切って観てみたらそれは、アルバートが詐欺師仲間の孤独な死をきっかけに老年に至った自分の人生を迷ったり、その他のメンバーも「死」と「嘘に塗り固められた詐欺師としての自分の人生」に直面させられたりする話でした。ぐぐっ、これは……。というわけで、このくそ暑いのに、私の心は静まり返っています。いいですね、これはこれで。暑さだって、いつまでも続くものではないということですよ。はは。


さて本題。
帯にある「この歯が痛むとき必ず、要人が暗殺される!」という言葉に惹かれて買った小説です。なにこれ、すごく面白そう! と興奮した私は、買ってすぐに最初の30ページほどを読みました。読んでみると、これは予想していたような痛快スパイアクション小説でもなければ、「歯の痛み」と「要人暗殺」という結びつき難い二つの物事を愉快に結びつけて描いた単なるユーモア小説でもないことが分かりました。当時の私はそれ以上読み進めることができず、数ヶ月後に再度挑戦した時も70ページ以降よりは進められず、今回3度目でようやく読み通すことができました。物語にはやはり読み時というものがあるのです。冷房のない部屋で、汗と勇気を振り絞り、キリキリと締めつける胸の痛みに歯を食いしばって読みました。思っていた以上に暗くて面白かったです。暗いユーモアがあります。いかにも私の好きそうな物語でした。

登場人物はなかなか魅力的です。淡々と語りを進めつつもどこか間抜けさを感じさせる主人公のS・Gは、東欧のとある国に生まれ、秘密の使命を帯びてさまざまな職に就き、世界を飛び回ります。どうやらスパイのような仕事をしているらしいのですが、その仕事ぶりは地味なもので、第一線というよりは裏方であるようです。S・Gの唯一の友人である有名な音楽家でスパイ仲間のマエストロGも面白い人物です。主人公とマエストロとの緊迫感のある命がけの友情のありようは実に読みごたえがありました。

物語は細かく章分けされ、章のそれぞれを独立したお話として読むことができます。主人公が生まれ、歯が生え、それが生え変わり、永久歯が抜け落ちてしまうまでのことが、数々の恋愛話や不可思議な出来事などを盛りこみながらテンポよく語られてゆきます。彼の歯の一本一本がどういう運命を辿ったのか、その歯は何を象徴していたのか、その歯が傷つき浸食され痛みの後に抜け落ちるちょうどその時、世界のどこかでは紛争や戦争のために多くの人間が虐殺されたり、名のある人物が暗殺されたりします。世界の諸々の大事件(はっきりと名指しされてはいないものの、現実の事件と思われる。ベトナム戦争やチェルノブイリの事故など)と、S・Gの人生の転換点と、彼の歯とが不思議な連動を見せているあたりが面白いところです。また、主人公がゆく先々で出会う数多くの歯科医とのやりとりもまた面白く描写されていました。特に、主人公が信仰をめぐってある歯科医と「賭け」をするお話があるのですが、その結末はとても意外なものでしびれました。

最後に、この物語にはいちいちグサッとくる文章が挿入されていたので引用しておきたいと思います。



 “一九四五年八月
 わが家にもどる。息子の口に最初の永久歯が生えていた。日本ではひとつの町が三分間で消失した。どちらが大切なできごとだろうか? 歯が現われたことか、町が消えたことか? ”(父の日記から)


 “「そちらが勝ったら、抜歯代は要らない。だが、わたしが勝ったら手術は明日まで延期だよ」「そんな! 明日までなんか待てません!」「だったら、せいぜい知恵を絞るんだね。考えてもみたまえ、人間を駆り立てるのは痛みと絶望ではないのかね。人生の原動力は、自己満足や――たわけた言葉を使わせてもらえば――幸福などではもちろんないんだよ。さあ、きみは白で指したまえ」”(SD5:啓示の物語)

 “いまのわたしには、批判的判断力などどうでもよい。世界に対して、なんの興味ももてないからだ。そんなものを気にかけなくなってからもう久しい。老いという生ぬるい狂気のなかで、文句もいわず、適当に楽しみながら、いまのわたしは生きている。”(知恵の歯、または親知らず)

 “遅まきの涙にわたしが誘われたのは、喪失の思いからではない。人間の永遠不変のありようが眼前に立ち現われたからである。目も、歯も、なにもないままに生き抜く人間の姿。あとはすべてが幻なのだ。”(SS3:女医の夢)

 “「どうしてあんなことができたのだろう? 記憶の眼に映るあの青年はほんとうにわたしだったのか? いくら想像をめぐらせても、わたしには自分と彼が同じ人物だったとは思えない。あれはすべて存在しなかったできごとなのだ」まがいもののID6が落ちた日、わたしは心のなかでそう思った。「わたしはいまだかつて存在したことがない。わたしは誰かの記憶の記憶の記憶なのだ」”(ID6:地下道にて)





痛くなってくるので、これ以上引用するのは止めました。諦観と悲観と幻滅に満ち満ちた物語です。ものすごく面白かったのですが、正直言って、かなりこたえました。人はなぜこんなふうに生きるのでしょうかね。でも、諦めても悲しんでも人生は続いてゆくようです。得たものを失うのが怖いけれど、次々とそれらを失って、いつかすべてを失ってもまだ生きていそうでもありますね。人間は鈍くて慣れやすく、またしぶといものなのかもしれません。






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