半透明記録

もやもや日記

『唐宋伝奇集』(上)

2010年09月01日 | 読書日記ーその他の文学

南柯の一夢 他十一篇
今村与志雄訳(岩波文庫)



《内容》
「南柯の一夢」の主人公は官僚を嘲笑する自由人である。そういう男が役人になって栄達の限りをつくし、得意と失意をたっぷりと味わう。味わったところで夢からさめ、槐の根もとを掘るとどうだろう、夢みたとおりの小さな蟻の王国があったのだ。唐代伝奇の面白さは、幻想を追っているようで実は深く現実の人間の本質をついているところにある。

《この一文》
“「僕は、いま、やっと生きているだけです。愉快とはとんでもありません」
 呂翁、
「それが愉快とは申せないとするなら、なにを愉快と申せましょう?」
  ――「邯鄲の夢―枕中記」より ”


“神を語り、怪を説くことは、儒教教典の教えにそむくけれども、官位を盗んで生命に執着する人々にとって、これが戒めとならんことを。後世の君子が、南柯を偶然の事と考えて、名誉や地位でもって天地の間で驕ることがないように希望する。
  ――「南柯の一夢―南柯太守伝」より ”






夢を見なくても、空想をしなくてもじゅうぶんに生きてはいけるでしょうが、もしもそれらをしなければ、人は一通りの人生しか生きられないことになると言えましょうか。



蔵書を減らそうという試みのために、私はいよいよ岩波に手をつけようかと決断しました。この一年の度重なる引っ越しで、既に100冊以上の本が私のもとから去ったわけですが、でもまだ減らさないと本棚に収まらないのです。個人的には収まらなくてもいいような気もしますが、なんとなく何とかしなくてはいけない雰囲気が漂っていて……

沈んだ気持ちにうなだれながら、私は『唐宋伝奇集(上下)』を手に取りました。これはもう15年も前に買った本で、最近読んでいないし、いつでも手に入りそうだし、思い切って処分してしまおうかな。そういうことなら最後にもう一度だけ読んでおこう。ペラペラ(ページをめくる)。

 なにこれやっぱり面白すぎ!
 手放すとかって……絶対無理!!

ということになりました。うーむ、まあ当然の成り行きですね(^_^;) 無理ですよ、無理、無理! 私には無理です! いやー、無理だったわ\(^o^)/




さて、『唐宋伝奇集』です。
タイトルの通り、上巻には唐代、下巻には唐代から宋までの伝奇小説を集めてあります。非常に面白い。中・高校時代に漢文の参考書を読みふけっていたのを思い出します。あの頃はどうしてあんなに漢文ばかり好きだったのか自覚できませんでしたが、まず単純に物語が面白かったからなんだなぁ。長いこと忘れていましたが;

『唐宋伝奇集』の上巻に収録された物語はどれもこれも豪華絢爛、ロマンチックで情緒豊か、洗練された美意識に溢れていて大変に面白いのですが、なかでもとくに印象的だったのは、ふたつの夢のお話。「邯鄲夢の枕」と「南柯の一夢」。どちらも人の世のはかなさを言う時によく用いられる、有名なお話です。しかし、あらためて読むとやはり面白い。

「邯鄲夢の枕」は、貧乏な書生が、旅の途中の道士に自分の境遇を嘆いてみせたところ、道士が青磁の枕を貸してくれ、書生はその夢の中で栄華の限りを尽す。欲望の限りを尽して生涯を終えたところで目が覚めると、さきほど枕を借りた時からさほどの時間も過ぎてはいなかった、というお話。普通に面白すぎる。なんて面白いんだろう。

「南柯の一夢」は、金持ちだったが落ちぶれて酒ばかり飲んで暮らす男が、ある時飲み過ぎて加減が悪くなり庭の槐(えんじゅ)の根もとで眠ったところ、「槐安王国」というところから迎えがやって来て、手厚くもてなされる。男はそこで栄達の限りを尽すが、王国の滅亡が迫って失意のうちに故郷へ帰るところで目を覚ます。不思議なことに男が寝入ってからまだ少しも時間が経っておらず、庭の槐を掘ってみると男が栄華を得たのと同じさまで蟻の王国が見つかった。さらに不思議なことには、夢の中で出会った現実世界での友人はふたりとも死の際にいて、男自身もその後予言通りの時期に死んでしまった、というお話。これまた面白すぎるお話です。この不思議具合が絶妙です。

これらが大昔に作られた物語であるとは、人類の創造の歴史ってほんとうに刺激的で素晴らしい。昔の人もやはり人生を夢にたとえたりしていたのですね。人生と夢との不思議な関わりというのは、もしかすると人間が夢を見始めてからずっと脈々と受け継がれてきた謎なのかもしれません。ロマンだわー。






夢を見なくても、空想をしなくてもじゅうぶんに生きてはいけるでしょうが、もしもそれらをしなければ、人は一通りの人生しか生きられないのではありますまいか。人生は夢だ、幻だ、蜃気楼だ。それはつまり、素晴らしいものであれとどんなに願っても結局生きることというのは儚く空しいものだと認めざるを得ない一方で、ただ我々が願いさえすればその心の中では喜びと興奮に充ちた色とりどりの生を無限に、幾通りも同時に生きられるということでもあるに違いない、と私は思うのでありました。侘び暮らしのなかで豪勢な夢を見る。どちらにしろ、それは決して惨めでも悲しくもないはずさ。

夢よ、幻よ、蜃気楼よ。いつかの誰かのまぼろしよ、そこで待っていろ。いま私が飛び移るから。



久しぶりに震えるほど興奮しました。







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