ソポクレス 高津春繁訳(『アイスキュロス・ソポクレス 世界古典文学全集 第8巻』 筑摩書房)
《あらすじ》
オイディプス王が自分の素性を覚り、自分が父親殺しであり、母親を妻として、不倫の交わりから、ポリュネイケスとエテオクレス、アンティゴネとイスメネの二男二女を設けた天人共に許すべからざる罪人であることを知り、自ら両眼をつぶして盲目となってからのことは、ホメーロス以来いろいろな話があって一致しないが、ソポクレスのこの劇では、王が国を追われる時に、二人の息子たちは父を庇おうとしなかったことに立腹し、姉娘のアンティゴネに伴われて、諸国を流浪の末、アッティカのアテナイ近郊コロノスのエリニュス・エウメニデスの神域の森に到着することになっている。
この時王の祖国テーバイには、王座の争いから、国を追われたポリュネイケスが、アルゴスのアドラストス王の援助を得て、その大軍をひきいて城下に迫っている。この戦の始末は、アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』と、ソポクレスの『アンティゴネ』が扱っているが、『コロノス』はこの悲惨な事件のプロローグであると同時に、神々の虐い運命にしいたげられたオイディプスの神々との和解の物語である。
《この一文》
”すると突然、誰かの声があの人を大音声で呼んだので、並みいる者たちの髪の毛は、たちまち恐怖に逆立った。というのは、神は彼をいくたびも幾重にも呼んだからだ。そこなるオイディプスよ、オイディプスよ、なぜわれらは行くことをためらうのか。お前はもう遅れているぞ! 彼は神に呼ばれているのに気づいた時に、この地の王テセウスに自分に近づくことを求めた。そして近づいた時に、言った。 ”
『コロノスのオイディプス』は、制作年代は最も後になりますが、物語の順番で言うと、『オイディプス王』の次、『アンティゴネー』の前の話になります。ソポクレスの最晩年の作品であると言われておりますが、さすがに他の2作に比べてこの物語がもっとも壮大であるように感じました。あいかわらずテンポが良く、シンプルでありながら極めて印象的な表現が続きます。面白いです。ラーゲルクヴィストばりに感動しました。要するに、現代文学と比べても、全く劣らないほどの完成度です。さすがに古典中の古典だけはあります。本当に偉大だなあ、ソポクレスは。
この作品中で、ソポクレスは、オイディプスに彼が実は被害者であったということを自ら語らせています。彼は確かに父を殺し、母を妻としましたが、それは自分でも知らずに来た道を辿った末のことであり、不可避であり正当でもあったと覚ります。オイディプスが最後の最後で救われるのは、そのためであるのかもしれません。もちろん、この呪われた家系の悲劇は彼の死後もまだまだ続くのではありますが。神はなぜオイディプスにこのような苛酷な運命を担わせたのでしょうか。そもそもこの呪いは、オイディプスの父ライオスから始まっているような気もしますが(ライオスは亡命先の国の王子に恋をしそうになったことで呪われ、子を設ければその子に殺されるという神託を受けたにも関わらずオイディプスを生ませ、棄てさせます。私個人の感想からすると、王子に恋したくらいで呪わなくても……という気もしますが、神は彼を許しません)、一人の過ちが一族全体を滅ぼすほどの悲劇を巻き起こすことになるとしたら、それは何とも恐ろしいことです。ソポクレスの物語では、その恐るべき神の道を逃れることは、人間には決して出来ないようになっています。悲劇を避けるための決断というものが、彼等にはどうしても出来ないのです。いったん始まってしまえば、どうあっても、たとえその先が悲劇であっても突き進むしかないのです。恐ろしい。神の意志(時にきわめて不可解な)の前には、人間の起こす行動など、たとえそれが善意からであれ悪意からであれ、ほとんど無意味に等しいのでした。人間は自分では正義を発見することが出来ず、されるがままに浮かびもし沈みもします。
正義とは。
不可解で絶対的な神の道を、人はただ打ちのめされて歩くしかないのか。
神々との和解とは。
人類が長らく抱えている深刻なテーマと言えましょう。現代に生きる私に涙させるほどの傑作を生み出したソポクレスは偉大であることは疑いもありませんが、別の見方をすると、人類はソポクレスの時代から現代に至っても、いまだ精神的にはさして進歩を遂げていないというふうにも言えるかもしれません。私はソポクレスから、一体何を学べば良いのでしょうか。いつか我々は、新しい眼を持ち、この問題を過去のものとすることが出来るのでしょうか。それとももう既に誰か答えを得た人がいるのでしょうか。いずれにせよ、私はもっと勉強しなくてはならないことには違いないでしょう。
《あらすじ》
オイディプス王が自分の素性を覚り、自分が父親殺しであり、母親を妻として、不倫の交わりから、ポリュネイケスとエテオクレス、アンティゴネとイスメネの二男二女を設けた天人共に許すべからざる罪人であることを知り、自ら両眼をつぶして盲目となってからのことは、ホメーロス以来いろいろな話があって一致しないが、ソポクレスのこの劇では、王が国を追われる時に、二人の息子たちは父を庇おうとしなかったことに立腹し、姉娘のアンティゴネに伴われて、諸国を流浪の末、アッティカのアテナイ近郊コロノスのエリニュス・エウメニデスの神域の森に到着することになっている。
この時王の祖国テーバイには、王座の争いから、国を追われたポリュネイケスが、アルゴスのアドラストス王の援助を得て、その大軍をひきいて城下に迫っている。この戦の始末は、アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』と、ソポクレスの『アンティゴネ』が扱っているが、『コロノス』はこの悲惨な事件のプロローグであると同時に、神々の虐い運命にしいたげられたオイディプスの神々との和解の物語である。
《この一文》
”すると突然、誰かの声があの人を大音声で呼んだので、並みいる者たちの髪の毛は、たちまち恐怖に逆立った。というのは、神は彼をいくたびも幾重にも呼んだからだ。そこなるオイディプスよ、オイディプスよ、なぜわれらは行くことをためらうのか。お前はもう遅れているぞ! 彼は神に呼ばれているのに気づいた時に、この地の王テセウスに自分に近づくことを求めた。そして近づいた時に、言った。 ”
『コロノスのオイディプス』は、制作年代は最も後になりますが、物語の順番で言うと、『オイディプス王』の次、『アンティゴネー』の前の話になります。ソポクレスの最晩年の作品であると言われておりますが、さすがに他の2作に比べてこの物語がもっとも壮大であるように感じました。あいかわらずテンポが良く、シンプルでありながら極めて印象的な表現が続きます。面白いです。ラーゲルクヴィストばりに感動しました。要するに、現代文学と比べても、全く劣らないほどの完成度です。さすがに古典中の古典だけはあります。本当に偉大だなあ、ソポクレスは。
この作品中で、ソポクレスは、オイディプスに彼が実は被害者であったということを自ら語らせています。彼は確かに父を殺し、母を妻としましたが、それは自分でも知らずに来た道を辿った末のことであり、不可避であり正当でもあったと覚ります。オイディプスが最後の最後で救われるのは、そのためであるのかもしれません。もちろん、この呪われた家系の悲劇は彼の死後もまだまだ続くのではありますが。神はなぜオイディプスにこのような苛酷な運命を担わせたのでしょうか。そもそもこの呪いは、オイディプスの父ライオスから始まっているような気もしますが(ライオスは亡命先の国の王子に恋をしそうになったことで呪われ、子を設ければその子に殺されるという神託を受けたにも関わらずオイディプスを生ませ、棄てさせます。私個人の感想からすると、王子に恋したくらいで呪わなくても……という気もしますが、神は彼を許しません)、一人の過ちが一族全体を滅ぼすほどの悲劇を巻き起こすことになるとしたら、それは何とも恐ろしいことです。ソポクレスの物語では、その恐るべき神の道を逃れることは、人間には決して出来ないようになっています。悲劇を避けるための決断というものが、彼等にはどうしても出来ないのです。いったん始まってしまえば、どうあっても、たとえその先が悲劇であっても突き進むしかないのです。恐ろしい。神の意志(時にきわめて不可解な)の前には、人間の起こす行動など、たとえそれが善意からであれ悪意からであれ、ほとんど無意味に等しいのでした。人間は自分では正義を発見することが出来ず、されるがままに浮かびもし沈みもします。
正義とは。
不可解で絶対的な神の道を、人はただ打ちのめされて歩くしかないのか。
神々との和解とは。
人類が長らく抱えている深刻なテーマと言えましょう。現代に生きる私に涙させるほどの傑作を生み出したソポクレスは偉大であることは疑いもありませんが、別の見方をすると、人類はソポクレスの時代から現代に至っても、いまだ精神的にはさして進歩を遂げていないというふうにも言えるかもしれません。私はソポクレスから、一体何を学べば良いのでしょうか。いつか我々は、新しい眼を持ち、この問題を過去のものとすることが出来るのでしょうか。それとももう既に誰か答えを得た人がいるのでしょうか。いずれにせよ、私はもっと勉強しなくてはならないことには違いないでしょう。
吉田先生の本、とても面白そうですね! ぜひ読みたいです!(幸いお手頃で手に入るようですし…;)
>「私は見て知っている」という意味が隠されている
なるほど。物語を深く読むというのは大切ですね。物語を理解するためにはやはり深く深く考えなくてはならないのですね。勉強になります!
平家物語は人間性を描いた物語だという御説には私も同感です。だからこそあんなにも感動的なんですよね。彼らは皆死にますが、それがそのまま彼らが生きていたことを意味していて、私たちはそこにやはり今生きているがやがて死ぬ自分たちの姿を見いだしては、心を打たれるのでしょうか。また、その生はときに辛く悲しいものであったりもしますが、それでも限りなく美しいものでもあるということを思い出したりもしますね。人生は美しい。人として生きることは、そう悪くはないものですよね。
ソポクレスという人物は、ntmymさんもご指摘の通り、本当に偉大な(悲)劇作家だったと思います。三千年も前に人間の本質をこのような形で描き出したのですから。(また、その謎に気付かれた吉田先生もすごい方だと思います。ちなみに、『オイディプスの謎』、アマゾン.comで1円で出ています。ご参考までに。蓑笠亭にはちょっと複雑な気分です・・・)
蓑笠亭は『平家物語』が好きで、よくあちこちツマミ食いしますが、この作品も「人間とは何か」を述べているのだと思います。登場する人物は一人を除いて、ことごとく死んでしまいます。しかも、みんな泣きながら戦争をするのです。「そんなに嫌なら、戦争なんかしなければいいのに」と読みながらいつもそう思います。でも、それこそ、自分の力ではどうにもならない運命に操られ、みんな死んでゆくのです。しかし、それら「死」と同数存在する「生」は、どれもこれも、みな「美しい」のです。『平家物語』は「諸行無常」の物語だとよく言われます。確かにその通りです。しかし、その遥か彼方にある「諸行無常」のずっと手前の、「人間としての生」いいかえれば、「人間性」を描いた作品こそが『平家物語』であると、蓑笠亭は確信しています。
遠いギリシャ時代にソポクレスが「オイディプス」として描いて見せた「人間性」は時空を超え、鎌倉時代の日本の『平家物語』として現れ、さらに両作品は、21世紀を生きる我々にも語りかけてくれている。そんな「妄想」する今日この頃です。
再度長々と失礼しました。
>「そんな塗炭の苦しみの中にあっても、人間としての尊厳を失わず、毅然と生きてゆくこそが、神の意志に従うことである」
そうか、この物語が感動的なのは、こういうメッセージが込められていたからなんですね。
なるほど、目から鱗が落ちました(^^)
それは美しいですね。
私はもう一度、そういうことを念頭に置きながら読み返してみようかと思います。そしたらもう少し理解が深まるような気がします。
分かりやすくお教えいただき、どうもありがとうございました(^^)!