半透明記録

もやもや日記

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私は大袈裟である

2009年04月07日 | もやもや日記
この感傷を伝えることはできるのだろうか





なぜ私はたびたび大袈裟だと言われるのか。


物心がついたころから、私はことあるごとに「言うことが大袈裟だ」と評価されてきた。どうしてだろう? それは、たしかに私の言葉がいちいち大袈裟だからなのだろう。たしかに大袈裟だと自分でも思う。物事の凄さを表すためなら、単位も何も無視することもある。30cm のところを 1m と目測する。たしかに私はいちいち大袈裟である。否定は出来ない。

自覚があるなら、もうそれで済む話だけれど、実はすべての場面において私は大袈裟であるつもりはなかったりもする。大きさや広さ、長さなど、測れる物に対して言う場合には私も「大袈裟だったかな」と過大さを自覚できる。そもそもにおいてそんな私がこんなことを言うのもためらわれるのだが、しかし、美しさや悲しさ、感情の激しさについては、どうやったら正確に表現できるのだろう。「とにかく凄い! もう滅茶苦茶に!」と言う以外にどんな表現があるのだろうか。適当な言葉が思い付かないので、私はひたすらにこれらを連発している。人と話している時もそうだし、文章でもそうだ。
私自身は「(満足したので)もう死んでもいいと思った」とか「それさえあれば、もうほかに何もいらない」と言う人の言葉にしばしば魅せられる。そして私はそういう表現を特に大袈裟だとは思わない。けれど、私がそれと同じように言うとたちまち「大袈裟だ」と言われてしまうのである。これはいったいどうしたことだろう。私を「大袈裟だ」と評価する人にしてみたら、私も、私が好きな人の言葉も、どちらも大袈裟なのだろうか。ここを考慮しないまま進むのは無意味な気もするけれど、いろいろと考えずにはいられない。

私が物事に感じたことをそうやって表現する場合、私の言うことは大袈裟でうるさいかもしれないけれど、嘘ではない。不正確ではあっても、まったくの嘘ということではない。私はそれを大きく見せたいのではなくて、その大きさを強い言葉でもって表したいだけである。

もちろん、私の言葉が嘘ではないからといって、何かそれの価値が上がるわけでもない。重要なのは、その言葉が嘘であるか真であるかよりも、相手にそれが伝わるか伝わらないか、伝わるとしてどのくらい深く確実に伝わるかということだ。「大袈裟だ」と言われてしまうのは、きっと私の言葉ではこの感情の大きさが伝わらないからだ。もっと的確に表さなければ、分かってもらえないだろう。
「凄い」とか「滅茶」とか言う以外に、あるいは「胸が痛む」とか「涙が止まらない」とか言う以外に、どういう言葉なら良いのだろう。もしかしたら強い感情を伝えるために必要なのは強い言葉ではなく、もっと静かで控えめな言葉なのかもしれない。激しさを伝えるのは、必ずしもそれ自体が激しさを持つ単語ではなく、もっと別なもの、別な表現なのかもしれない。考えてみれば、感情の大きさや激しさを「強さ」で表すのは不適当な気もする。だが、それはどういうものなのだろう。私は知らない。


もう黙っていた方がむしろ良いのかもしれない。
そう思ってしまって仕方がなかった。だけど言葉を尽くさなければ、きっともっと伝わらなくなるだろう。沈黙したままで、誰が私を顧みてくれるだろう。誰が分かってくれるだろう。だいいち、私が分かってもらいたいのだ。伝えたいのは私の方なのだ。

まずは日頃から正確さということを心掛けてみようか。普段から正確な物言いをしていれば、いざという時の言葉も信用してもらえるかもしれない。物事をなるべく正確に言い表そう。
それを心掛ければ、ひょっとすると私が興奮している時、そしてその興奮を誰かに伝えたい時にも、落ち着いて適当な言葉を選べるかもしれない。……だが、興奮の真っただ中にある時、落ち着いて言葉を選べるくらいなら最初から問題にはならないような気もする。それが出来ないから、困っているのだ。まあでも、とにかく心掛けるだけは心掛けてみよう。

それにしても私は言葉ということにこだわり過ぎているかもしれない。会って互いの顔を見ながらであれば簡単に伝わることだってあるはずだ。ところが私が「大袈裟だ」と言われてしまうのは、圧倒的に対面の場合が多い。生身の私から発せられる声による言葉は、その時、明らかに伝わっていない。ならば、私の文章の方は大袈裟でないかというと、そうとも言い切れない。わざわざ「君は大袈裟だ」というメールをくれる人がいないだけではないのか。私には、会える人にも会えない人にも、伝えたいことがある。なるべくその通りに伝えたいと思うことがある。そして、もしもそれが言葉によって伝わったら、どんなにいいだろうと思う。幻想か幻覚かもしれないが、私の伝えたいことが時々は誰かに伝わった手応えがあったし、その時の感激を忘れたり諦めたりすることはできそうにない。

言葉だけで足りないなら、「表情」とか「物腰」といったこともやはり重要なのかもしれない。そういった人間性とか品性とでも言うべき要素が大事かもしれない。そういうものは、つまるところその人の言葉や文章に影響を及ぼすだろう。信頼するに足る人間性。私に欠けているのは、まさにこのことかもしれない。なんだか気が遠くなってきた。私がそんな「ちゃんとした人間」になどなれるだろうか。努力はすべきとは思うけれども。努力はすべきと思うのだけれど……。


不正確とか不誠実ということを恐れていっそ黙っていたくなるけれど、諦めてしまうには惜しいほどに、伝えたい物事があり過ぎて、私は大袈裟と言われようとどうしようと、結局は何も考えずに「凄い!」「やばい!」と言わずにはいられないのだろうな、この先も当分。ああ。

というわけで、
あれこれ考えてみた末に………開き直った!! の巻。でした。