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『ドストエフスキイ後期短篇集』

2009年01月29日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

米川正夫訳(福武文庫)



《内容》
マイナスをすべて集めればプラスに転化しうる――思索に思索を重ねた末に辿りついた、後年のドストエフスキイの逆説の世界観がちりばめられた後期傑作8短篇。

《収録作品》
*おとなしい女 空想的な物語
*ボボーク
*キリストのヨルカに召されし少年
*百姓マレイ
*百歳の老婆
*宣告
*現代生活から取った暴露小説のプラン
*おかしな人間の夢 空想的な物語

《この一文》
“ けれど、すべての人間は、同じものを目ざして進んでいるのではないか。少なくとも、すべての人間が、賢者から、しがない盗人風情にいたるまで、道こそ違え、同じものを目ざして行こうとしているのだ。これは月並みな真理ではあるが、この中に新しいところがある。というのはほかでもない、おれはあまりひどくはしどろもどろになり得ない。なぜなら、おれは真理を見たからだ。おれは見た。だから、知っているが、人間は地上に住む能力を失うことなしに、美しく幸福なものとなり得るのだ。悪が人間の常態であるなんて、おれはそんなことはいやだ、そんなことはほんとうにしない。ところで、彼らはみんな、ただおれのこうした信仰を笑うのだ。しかし、どうしてこれが信ぜずにいられよう、おれは真理を見たのだもの、――頭で考え出したものやなんかと違って、おれは見たのだ、しかと見たのだ。
  ――「おかしな人間の夢」より   ”



夢で見たことなんて、何の意味も、価値もない。私はそんなふうには思えない。その夢を見たことによって、それまでの人生が一変してしまうような体験は誰にでも起こり得る。私にも起こる。
世の中には、「夢解釈」とか「夢分析」というものがあって、夢で見たことをあれこれ考え直したりする人もいる。私もそういうのを面白いとは思うけれど、夢で得た幸福感や絶頂感が台無しになりそうな場合は信じないことにしている。
結局のところ、ある夢を見て、目覚めた時、それが自分にとって重大な意味と価値を持つという手応えがあった。それでいいじゃないか。だって、私は見たのだもの、たしかにそれを見たのだもの。
「おかしな人間の夢」という物語は、そういう私の考えを強く補強してくれました。

ここに収められた短篇はどれもすごく面白かったです。「ボボーク」は別のアンソロジーにも入っていたので、読むのは2度目ですが、最初に読んだときとは別の印象を受けました。墓場に横たわる死者たちの会話を盗み聞くという物語なのですが、終わりの方にさしかかって、エレンブルグの『フリオ・フレニト』を思い出しました。フレニト先生が言っていたことを思い出しました。しかし、これは多分逆で、『フリオ・フレニト』の中にドストエフスキイの存在を感じるべきところだったのかもしれません。違っているかもしれませんが、そんな気がしました。

また、別の短篇ではストルガツキイの『ストーカー』を思い出したりもしました。「おかしな人間の夢」ですが、この物語の上に引用した部分では、すごくレドリック・シュハルトを思わせます。人類に絶望しながら、でも愛しているのです。叫ばずにいられないのです。自分では何もそれらしいことは出来ないと分かっていても、せめてただ祈らずにいられないのです。信じずにはいられないのです。泣きそうです。

この「おかしな人間の夢」は、意外にもSFテイストな作品です。ユートピア小説ともいえるかもしれません。この作品の強い印象は、ほかの7作品の印象をことごとく吹き飛ばすほどの威力がありました。ここへきてようやくこの本の裏に書かれてあった説明書きの意味が理解できました。「マイナスをすべて集めればプラスに転化しうる」。なるほど。そういうことだったのか。

主人公は、自殺するつもりで装填済みのピストルも用意してあったのに、なぜかつい椅子に座ったままで眠ってしまう。そして夢を見るのだが、そこで信じられないくらいに幸福な「地球」の人々に出会う。幸福で善良な人々に囲まれて、魅力と美と真実に貫かれながら彼は目覚める。これが単なる夢に過ぎないとは言えそうもないことには、彼の人生はすっかり一変し、彼はもう決して死にたいとは思わなかったのだ。

私は本を持つ手が冷たく震えるのを抑えることができませんでした。血がすべて真ん中に集まってしまったのです。ほんの短い物語ですが、ここには私の探しているものがたしかに存在しています。

ただ、ひとつ不思議なのは、きっとこれまでにもこの「おかしな人間の夢」をはじめ数々の作品においてドストエフスキイの激しさに触れて感激し、世界を人類を新しい目を持って見つめ、実際の行動に移した人さえ多く存在したことでしょう。それにも関わらず、依然として人類も世界もさほど良くなったように思えないのはどうしたことなのでしょう。文学にそれを期待するのが間違っているのですか。そんな力はありませんか。私はナイーブ過ぎるのですか。そう思うと、ふいに虚ろな気持ちになってくる。

いや、だがそうではないはずだ。私は信じる。多分100年や200年では足りないのだ。これは種子なんだ。いつかその日が来たら、爆発的に成長する可能性を秘めた、堅い殻に守られた種子なんだ。物語が人を惹き付ける間は、きっと眠ったままだろう。そうやって受け継がれていくだろう。でも、いつか芽吹くに違いない。こんなことを信じることができる。だって、ここで心が動いたことは事実なのです。なんの根拠もなく、何かに憧れたりすることは出来ないはずです。もしそれが決定的に無意味で無価値なものだとしたら。



私は恥ずかしながらドストエフスキイをあまり読んだことがなく、とくに主要な作品にはまったく触れたことがありませんが、この人の作品は思っているよりもずっと読みやすく、そこでこの人が伝えたいだろうことが直接的に伝わってきます。要するに、面白いということです。長編もひょっとしたら読めるかもしれないという希望がいよいよわいてきています。
今のところ私には、ドストエフスキイという人は気軽に手を出すにはあまりに巨大な人物ですが、思いきって読み進めたならば、その人の巨大さは思っていた以上であったということをさらに深く知ることになるのではないかと感じているのでした。