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もやもや日記

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『絶対子工場』

2009年01月08日 | 読書日記ー東欧

カレル・チャペック 金森誠也訳(木魂社)



《あらすじ》
「MEAG企業」社長G・H・ボンディ氏は1943年の元日に、新聞を読んでいたところ、ある発明広告に気が付いた。そして広告を出したのが、かつての学友マレク技師であると知り、さっそく会いに行くことに。マレク技師による恐るべき発明品【炭素原子炉】は〈絶対子〉と呼ばれる霊子をまき散らし、世界を混乱の大渦へと巻き込んでゆくことになる。


《この一文》
“「人は誰しも、人類に対しては限りない好意を寄せています。しかし、個々の人間に対しては、けっしてそんなことにはなりません。わたしは個々の人間を殺すでしょうが、人類を解放しようと努めるでしょう。だが、それは正しくないのです。神父さま。人間が人間を信じようとしないかぎり、世界は邪悪のまま留まることでしょう。  ”




ずいぶん前に一度読んだことがあったので、大筋は分かっているつもりでしたが、読み返してみて私はほとんど理解していなかったことと、読み終えた今も依然としてあまり理解できていないということが分かりました。それでも、たしかにこの物語は面白いと言えます。もし私がもっと努力をするならば、この物語は一層その面白さを増して私の前に現れることでしょう。

マレク技師による世紀の発明品【炭素原子炉】は、物質を「完全に」燃焼することによって無限ともいえるエネルギーを引き出すことを可能にします。しかし、その際「絶対子」と呼ばれる不思議な霊子が発生し、それを浴びた人々は突如として神の啓示を受けたがごとく熱狂し、しまいには奇跡を行う者まで現れます。このあまりに巨大な威力に怯えたマレク技師は、自らの力では【炭素原子炉】を保持することができず、旧友の資本家ボンディ氏に売り渡すことにします。ボンディ氏は精力的に【炭素原子炉】を生産し、世界中に売却するのですが、炉が設置された各地できわめて奇妙なことが起こり始め………という物語です。
結局、暴走する【炭素原子炉】に合わせるように、人々は信仰に、社会活動に、その他あらゆることに熱狂し、しかもそれぞれの熱狂が互いにぶつかり合い、未曾有の大戦争へと発展してしまいます。

チャペックの他の作品『R・U・R(ロボット)』や『山椒魚戦争』でも見られましたが、ここでも人類の世界はいったん破壊し尽くされます。ただ、この人の作品の良いところはたぶん、最後には平穏と希望が用意されているところでしょうか。絶望と破滅の行き着く先に、ささやかな、しかし確固たる希望を打ち立てようとする態度に、私は涙がこぼれるのをとめられません。

情けないのは今に始まったことではありませんが、正直に告白すると私は、チャペックという人が、いったいどういう世の中を理想としていたのかをこれまで理解することができませんでした。今でもはっきりと分かったとは言えませんが、少なくとも彼は、それがどういう思想であれ、自分の意志を押し通そうとするあまり、他者の意見をその存在ごと押しつぶすようなものには強く反対していたのであろうことは読み取れました。
互いの違いを認めず、理解しようともせず、自らの考えをただ一つの正義と信じることの危険は、チャペックのみならず多くの人が語ってくれてはいますが、実際にそのようにならないことの難しさは、我が身を省みれば容易に知ることができます。私自身も、くだらないこととは思いつつ、しばしば「カレーを混ぜて食べるか、あるいは混ぜないで食べるか」といった論争に熱くなることがあります。実にくだらないことではありますが、こういうことは他のことでもよく見受けられるでしょう。自分と違う考えをする誰かを軽蔑せずにはいられない。私たちは、ほんのささいな違いでさえも心の底からは容認することができない。そのために規模の大小にかかわらず、無限にひたすらに争い続けるのです。どうしたら、この不幸な、悲劇的な輪っかの外へ出ることができるのでしょうか。

おそらく、熱狂の中にあっても冷静に、相手の熱狂する対象の奥にも同じように存在する何か価値あるものを、罵りあうことなく、少しずつ理解しながら見つけていくことが、いま考えられるひとつのたしかな道筋なのかもしれません。しかし、どうやってその道に入ったらよいのか、どういう心理が人類をそこへ向かわせるのかが分からない。そんなことは、どうやったら可能なのだろう。

以下は、かつて浚渫船の上で神の啓示を受けたグゼンダ氏の言葉。

“『誰しもおのれの素晴らしい神を信じているが、他の人もまた
  何か善きものを信じているとは到底思えないのだ。人間はまず
  人間を信じなくてはならない。それさえ出来れば、他のことは
  万事うまくゆく』”


神のように強力な力を制御するには、人間はまだ弱すぎるのではないか。まずはできるところから、巨大な力に呑込まれて全てを滅ぼしてしまう前に、たしかなものを、この目に見え、自分の手で実際に扱えるものによって生を存続させていくべきではないだろうか。人類の発展や進歩といったものを、その本当の意味と行き先を、もしかしたら改めて真剣に考えてみるべきではないのだろうか。
と、1922年に発表された本書は、今日に至ってもなお読者をあれこれと深く考えさせる実に興味深い一冊でありました。いったい何をどうしたらよいのかがまったく分からない私ではありますが、いつかこれをもっと深く理解し、ここに何か手がかりを見つけることができたらいいと願うばかりです。