寒さが、手袋やジャケットから染み込んでくる。今朝はよく冷えた(帰って調べると-4℃を多少切っていた)。星の輝きは冴えて美しい。しかし、首を上げると冷気が胸に暴れ込む、上げたいが勇気が要る。
遊水池をこえ、土手を歩き出してやっと月がどうなっているのか解った。一日の違いでこれだけ場所が違う。
今日の一枚:五時十五分頃、神社の展望台にて。下に並ぶ光はJRの高架。月があって、金星。月の位置がとても低い。
久しぶりに、小川町に行ってきました。春キャベツの定植の手伝いです。温室内に置いてあった苗たちの苗床のポットの土はまだ凍り気味。定植した畝もマルチのかかっていないところは少し凍っていました。それでも、土の感触は気持ちよかったし、苗たちも気持ち良さそうでした。
蕎麦の花、満開になるとすぐに実をつける。だから、満開が新月に当たるように蒔くそうです。新月に満開になると、月明かりがない。それで、さぁ大変ということでよりいい実をつけるから。長老の経験からの法則です。理屈ではなくて、経験です。
野菜の種まきも、いついつの何時に蒔くといい。いつ収穫するのがいいということが分かっている。
人間は、人間だけでは何も知り得ない。草や野菜、虫や動物たちが教えてくれる。経験を重ねる。チャンスを見逃さないこと、経験を積むこと。これらを合わせて初めて、生きるということのようです。
今日の一枚:昨日よりもルナとビーナスの位置が近くなりました。
≪梅の香を一度はききたや空蝉ひとり≫
神社の公園の北、午前中くらいしか日が当らない様なところに、紅梅があって、白梅。白梅がちらほら咲きだした。まだまだと思って歩きだしたとき、ふと目についた山茶花の葉の裏に蝉の抜け殻が残っているのに気付いた。季節感のない奴だ、それとも土にもどり遅れたか。違うな、きっと夢を見たのだ。此処にいれば梅を愛でることができるぞと。
写真に収めていたら、自分を見ているような気がしてきた。はかない夢で、しかも決して叶わぬ。だが、まだしっかり葉を抱きかかえまだかまだかと待っている。庵主の場合はどうなんだろう。叶わぬはかない夢なのか。いやいや、そうはさせまじ。
先日知り合いの方から「踏み込み温床の季節です」とメール。この一ヶ月間仕事に振り回され、ほっとした今週は送別会が続く。そんな時季かと驚くとともに、また自分を見失っていたことに自己嫌悪。
一月ももう終わる。四季の十二分の一が過ぎてしまった。夢を思い続けながら、まだ振り回されるのかと思うとぞっとする。プレドニンを使わなくて済むようになったらと、トリガーを決めてはや季節が一周。まだかまだかと待っている。
今日の一枚:金星と月のランデブー。あんなに広い空の中、15度くらいの幅に女神が二人。どんなお喋りに興じているんだろう。二枚目、例の蕾の今朝の様子。寒さでスピードが鈍った?
アンという名のレトリーヴァーに出会った。ちょうどJRの陸橋の下をくぐった辺り、神社下の公園に向かう土手の上のこと。進んでいく先に小母さんと犬。犬はペッタリ地面に座り込んでいる。「すねている?」と思いながら近づいて行った。そのレトリーヴァー、ずっとこっちを見ている。頭の中では悪魔の甘いささやきが渦巻いてた。最近、揺らぐことは少なくなってきたが、なにかの拍子に此岸での生活の楽さにまけてしまいそうになる。
それはそうだ。毎日同じような時間に電車に乗って職場に向かい、同じようにルーティンをこなし・文句を言い・聞きながし、それで、ご飯を食べ帰る。帰宅後何もすることなく、一時間のうちには布団に入る。自分で自分をコントロールすることなく、歯車として動いていれば、それだけでなんでも済んでしまう。楽、このうえない。
ブドウ棚の下の木陰で鳥たちのさえずりを聞いていた。次どうしよう、暑くなってきたし。そう、あの村に代表されるところ、つまり彼岸では、そうはいかぬ。やることは、指示をもらうにしても、自分次第。決して歯車のように解決する必要などない。昼食だって、自分の体に聞いて欲しければ取る、それだけ。唯一決まっているのは、動物たちと生活していることを忘れないこと、夕飯をみんなと食べること。村の人たちを見ても、歯車として生活している人などいない。自分で自分をコントロールしている。生きている。
どれだけのことをどれだけ無駄にしてきたのだろう。仕方がないじゃないかと。ひとりで生きているんじゃないんだからと。理由はあれこれつけながら、歯車の一部であることに甘んじている。これからも続けようというのか。アンがリードをとってもらって、先に進庵主の右側にススッとやってきた。あれっと気付いて見たら、アンがじっと見ている。「どうしたの。負けちゃダメよ」そんなことを言っているような気がして、暖かい気持ちに包まれた。
今日の一枚:日の出から15分経った7時5分ころ、神社の展望台にて。
昨日のBBCの話の続き。時事通信によると…
日本の二重被爆者を嘲笑=BBCテレビ、謝罪―英
時事通信 1月22日(土)8時55分配信
【ロンドン時事】英BBCテレビのお笑いクイズ番組で、広島と長崎で被爆した「二重被爆者」の故山口彊さんを「世界一運が悪い男」などと笑いの種にしていたことが21日までに分かった。BBCは在英日本大使館の抗議を受け、謝罪した。
この番組は昨年12月に放映された。山口さんが出張先の広島で被爆し、長崎に戻るとまた原爆が投下されたと司会者が述べると、スタジオの芸能人や観客が爆笑したという。番組を見た在英邦人が日本大使館に連絡し、大使館が抗議した。番組プロデューサーから、山口さんを笑いものにする意図はなかったなどと釈明、おわびする手紙が届いた。]
抗議したのが1月の上旬。なぜ、10日以上かかって対応されたのか説明できない。その程度だと思われている? 所詮…、やめよう。くだらない。
今日の一枚:昨日よりも赤みが増した?
読売新聞のWeb版で読んだ記事。
BBC放送が昨年12月放映した人気お笑いクイズ番組で、日本の被爆者が笑いのタネにされ、在英日本大使館が抗議していたことが20日、わかった。
金曜夜の人気番組「QI」で12月17日、「世界一運が悪い男」として、広島と長崎で二重に被爆し、昨年1月に93歳で亡くなった長崎市出身の山口彊(つとむ)さんを取り上げた。司会者が「出張先の広島で被爆し、列車に乗って戻った長崎でまた被爆した」と説明すると、ゲストらが「でも、93歳まで長生きしたなら、それほど不運じゃない」「原爆が落ちた次の日に列車が走っているなんて、英国じゃ考えられないな」などとコメント、会場から笑い声が上がった。
在英日本大使館は今月7日、抗議の書簡をBBCと製作会社に送った。17日になって製作会社から「配慮に欠けていた」などとする返答があったが、BBCからは回答がないという。
情けなくて、二重被爆された方がいることを知らなかった。悲しくて、BBCの態度に見え隠れする「大国」という傲慢さが依然残っているという事実。いい番組を数多く提供するところだけに残念。
今日の一枚:この川に沿って西に行くと桜並木にノアの家。暗いところと明るいところの境あたりに、桜の老木が四、五本植わっていた。見る影もない。おりしも「カウラ事件」を読んでいて、その桜並木が見たいと思っていた。この川の桜並木の一翼を担っていた桜の木がどんな扱いを受けたかと思うと、胸が痛む。
二枚目は今朝の桜の様子。蕾が出てきた。
昼休みのこと。ネットを見ていたら今年の干支のウサギのことが出ていた。何でも「野良ウサギ」、公園や河川敷に捨てられるケースが増加しているらしい。その筋によれば、国内の飼育数は推計92万羽(平成22年)で、来年には100万羽に達する見込みという。それだけ、捨てウサギが一層増えるのではとの懸念が広がっている、という。いずれ多摩川や荒川の河川敷が「捨てウサギ」であふれる、だろうか。
なぜか。背景に「手軽に飼いやすいペット」という誤った認識、たとえば、犬猫のように鳴き声に悩むこともなく、集合住宅の中で飼いやすいという誤解がある。かわいくもあるし、今年の干支でもある。しかも安い、5千円以下とか。だから、数は増える。だが、しかし、ウサギの体毛は犬や猫に比べて細く、アレルギーを発症しやすい。また、室内のコードをかみ切ったり畳を掘ったりする習性があり、管理が必要、手間がかかる。さらに実は飼育費用は割高。餌の牧草代は月に1万円以上かかる、病気になった際の通院費用は高額。ウサギの寿命は一般に7~10年程度とされ、一生面倒を見るとなるとそれなりの費用と手間に対して覚悟がいる。で、衝動で飼い始めてしまったら…。結局、「放棄」「捨てる」。
もしかしたら、近い将来、河川敷の手入れがいらなくなる一方で、おちおち散歩すらできなくなるかもしれぬ。ウサギの巣、落とし穴ばかりが広がって。台風などで水量が増えれば、そこから水が流れ出し大洪水。でも、ウサギは食用。海外から肉を輸入することなく、自給率を上げることにつながる? とんだバカ話で同僚と盛り上がってしまった。
なんて国なんだろう。ブームや商業主義重視で、これから先のことなど考えちゃいない。もし、農地に捨てられ繁殖でもはじめたら、どうなる? 自分たちの食べるものをすら全滅する可能性がある。オオカミでも放し飼いにして食べてもらうか? 猛禽類? だが、それらが住む環境は今やどこにある。可愛いからと言って買うのもおかしい、売るのもおかしい。所詮そんな程度のエコ大国。子供の子供の孫たちからバカにされること、間違いなし。
今日の一枚:部屋に差し込んできた朝陽。出かけ前、七時頃のこと。